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間部詮徴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
間部詮徴
時代 江戸時代後期
生誕 不明
死没 安政5年(1858年)8月
別名 文三郎、金三郎、図書(助)
主君 徳川家慶家定
氏族 間部氏
父母 父:間部詮芳、母:間部詮茂の娘
養父:間部詮寛
兄弟 詮寛、俊章、女子、女子、詮徴
不詳(貞鏡院)
詮義
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間部 詮徴(まなべ あきよし)は、江戸時代後期の旗本間部詮芳の子。兄・詮寛の養子に入り、赤坂間部家の家督を継ぐ。

天保11年(1840年)、間部詮寛の養嗣子になり赤坂間部家の家督と遺領を相続した。嘉永7年(1854年)、知行所に対し3年の間、賄金(御用金)を上納するよう命じている[1]安政2年(1855年)の時点で小普請だった。安政3年(1856年)、隠居して家督を実子の詮義に譲った[2]。安政5年(1858年)、死去。

脚注

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参考文献

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  • 小川恭一編『寛政譜以降旗本家百科事典』第五巻、東洋書林、1998年。
  • 竹内信夫「所謂「本所間部家」と「赤坂間部家」について」(『地域史研究と歴史教育:森山恒雄教授退官記念論文集』)亜紀書房、1998年。
  • 取手市編纂委員会編『取手市史 通史編II』取手市教育委員会、1992年。 
  • 取手市史編さん委員会編『取手市史 近世史料編III』取手市教育委員会、1989年。