関口一郎 (野球)
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 東京府東京市中央区 |
生年月日 | 1935年2月19日 |
身長 体重 |
177 cm 73 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1957年 |
初出場 | 1957年 |
最終出場 | 1959年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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関口 一郎(せきぐち いちろう、1935年2月19日 - )は、1950年代に大洋ホエールズに在籍した東京都中央区[1]出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。
来歴・人物
[編集]明治高校では控え投手。1952年春季関東大会決勝に進み、宇都宮高を相手に先発を任せられるが、初回に打ち込まれ降板している。卒業後は明治大学に進学。東京六大学野球リーグでは3年生までに3回の優勝を経験。貴重な左腕として期待されるが、1年上の秋山登の陰に隠れ登板機会には恵まれなかった。しかし秋山が卒業した1956年春季リーグでは、中田昌宏、衆樹資宏ら強打者揃いの慶大を完封し、一躍脚光を浴びる。その後は投手陣の中軸として起用されるが、チームは春季3位、秋季4位に終わった。大学同期には佐々木重徳、田村満(いずれも中退)、荻孝雄、横山昌弘らがいた。
1957年に、迫畑正巳監督をはじめ秋山、土井淳など明大出身者が多かった大洋ホエールズに鳴り物入りで入団[1]。1年目から一軍で起用され、6月4日には初先発。巨人の木戸美摸と投げ合うが2回途中3失点で降板、敗戦投手となる。翌1958年も7月から先発陣の一角として起用される。7月3日には広島を相手に6回1失点と好投、6日にも大阪を5回無失点と抑えるが、味方の援護がなく白星はつかなかった。その後の先発でも惜敗が続き4連敗、初勝利はならなかった。1959年には登板機会が減少し、同年限りで引退[1]。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1957 | 大洋 | 15 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | -- | ---- | 134 | 27.2 | 38 | 6 | 13 | 0 | 0 | 13 | 1 | 0 | 26 | 22 | 7.07 | 1.84 |
1958 | 14 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | -- | -- | ---- | 170 | 41.0 | 39 | 4 | 15 | 0 | 0 | 23 | 0 | 0 | 16 | 15 | 3.29 | 1.32 | |
1959 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 17 | 2.2 | 3 | 2 | 5 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 5 | 4 | 12.00 | 3.00 | |
通算:3年 | 30 | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | -- | -- | ---- | 321 | 71.1 | 80 | 12 | 33 | 0 | 0 | 41 | 1 | 0 | 47 | 41 | 5.17 | 1.58 |
背番号
[編集]- 25 (1957年 - 1958年)
- 11 (1959年)
脚注
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 関口一郎 - NPB.jp 日本野球機構