関口開
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関口 開(せきぐち ひらき/ひらく、1842年8月5日(天保13年6月29日)- 1884年(明治17年)4月12日)は、幕末から明治時代前期に活動した数学者である[1][2]。本名は甚之丞[2]。幼名は安次郎[1]。旧姓は松原[1]。
経歴・人物
[編集]金沢藩士だった松原信吾の長男として生まれる[2]。後に関口家の養子となったことにより[2]、関口姓を名乗った[2]。その後滝川秀蔵の門人となり[1][2]、また兄の松原匠作から和算を学んだ[2]。その後戸倉伊八郎から洋算を学び[2]、微分や積分をよくした[2]。
後に戸倉から破門を宣告されたことにより独学でヨーロッパの数学を学び[2]、明治維新後の1869年(明治2年)に金沢藩校を経て[2]、廃藩置県により転勤し石川師範学校(現在の金沢大学教育学部)にて西洋数学の教鞭を執った[1][2]。これによって多くの門人を育て[2]、河合十太郎ら多くの数学者を輩出する事に貢献した[2]。
著書
[編集]- 『新撰数学』- 1873年(明治6年)に出版[1][2]。原本はイーフレイム・チェンバーズの数学書を翻訳及び改訂したものだった[1]。後に5度の改訂を経て1883年(明治16年)までに総計で22万部を突破する売り上げが記録されている[1][2]。