関重嶷
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関重嶷(せき しげたか、宝暦6年(1756年)9月3日 - 天保7年(1836年)12月17日)は、江戸時代中期・後期の武士である[1]。上野国伊勢崎藩家老。字は子岐。通称は助之丞。号は喚醒、睡峒。名は「しげさと」とも読む[1]。関当義(まさよし)の子[2]。
山崎闇斎派の村志玉水に朱子学を学び、安永3年(1774年)藩校学習堂が創設されると学頭に就いた[3]。
寛政9年(1797年)伊勢崎藩家老となるが、翌年蟄居を命じられる。天保2年(1831年)蟄居を解かれるが、天保7年(1836年)12月17日死去[4]。
浅間山の天明大噴火の記録「沙降記」や地誌「伊勢崎風土記」などをあらわした[1][5]。
脚注
[編集]- ^ a b c デジタル版 日本人名大辞典+Plus『関重嶷』 - コトバンク
- ^ “浅間山大噴火の史料展示 藩の記録で学ぶ被害状況と対応(群馬県伊勢崎市)”. 上毛新聞 (2022年8月19日). 2022年9月26日閲覧。
- ^ 『明治維新の先導者 高山彦九郎』みやま文庫、2007年、70-71頁。
- ^ 『明治維新の先導者 高山彦九郎』みやま文庫、2007年、85頁。
- ^ “関重嶷著「伊勢崎風土記」ほか2点”. www.city.isesaki.lg.jp. 伊勢崎市. 2022年9月26日閲覧。
- ^ “関当義・重嶷父子の墓|伊勢崎市”. www.city.isesaki.lg.jp. 2023年8月14日閲覧。