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天明大噴火

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

天明大噴火
天明の浅間焼け
浅間山の天明大噴火を描いた「夜分大焼之図」[1]
火山浅間山
年月日天明3年7月7日 (1783年8月4日)[2]
天明3年7月8日 (1783年8月5日)
噴火様式プリニー式噴火[3][4][5]
火山爆発指数4
影響死者1,624人
流失家屋1,151戸
焼失家屋51戸
倒壊家屋130戸余り
プロジェクト:地球科学プロジェクト:災害

天明大噴火(てんめいだいふんか)とは、江戸時代1783年8月5日天明3年7月8日)に発生した浅間山大噴火である[6][7][8]。浅間山史上最も著名な噴火であり[9]天明の浅間焼け(てんめいのあさまやけ)とも呼ばれる[10][11][12][13]

概要

天明大噴火により浅間山の北側に形成された鬼押出し溶岩

現在の群馬長野県境に位置する浅間山(標高2,568m)は日本を代表する活火山であり[14]、過去に何度も噴火を起こしている[15][16]。記録に残る最古の浅間山噴火は、日本書紀に記された685年の噴火である[17]。その後1108年に「天仁噴火」と呼ばれるかなり大規模な噴火があったと伝わる[18]。1783年に発生した天明の浅間山噴火は、歴史に残る他のどの浅間山噴火よりも激甚な災害をもたらしたため、詳細な記録が古文書絵図などで豊富かつ多様に残されている[19]。比較的新しい時代に起きた大噴火であったため噴出物の保存もよい[20]

天明大噴火は、天明3年4月9日(1783年5月9日[21][22])から始まり[23]、7月7日(8月4日)夜〜翌朝頃に最盛期を迎え[24]、結果的に約90日間続いた[25][26]。大規模なマグマ噴火であり、山体崩壊や二次爆発などが発生した[27][28]。噴出物総量は4.5×108m3[27]マグマ噴出量は0.51 DRE km3[27]火山爆発指数はVEI4[29]噴火マグニチュードは5.1であった[30]

この噴火は前掛山山頂火口(釜山火口)から発生し、主として北側の山麓(現在の群馬県嬬恋村長野原町など[31])を中心に大被害を出した[32]。特に鎌原村(現・嬬恋村大字鎌原地域)は[33]、この時の火砕流や土石なだれでほぼ壊滅したことで知られ[34][35]、村の人口の約8割にあたる477人が死亡した[36]。現在浅間山の北側にある溶岩地形・鬼押出しは、この時に形成されたものである[37]

天明浅間山噴火を描いた絵図は、オランダ商館長のイサーク・ティチングによって『将軍列伝』(1820) の挿絵としてヨーロッパにも紹介された。

この時の噴煙成層圏にまで達し、関東一円に大量の軽石火山灰が降り注いだ[6][38][注 1]関東平野一帯は、この噴火による火砕流岩屑なだれ大泥流洪水などにより、極めて甚大な被害を受けた[2][39]。特に、吾妻川利根川を流下して太平洋江戸湾にまで到達するほどの大規模火山泥流の発生は、災害を極めて激甚なものとした[40]。また、火山灰が直射日光の照射を妨げて既に始まっていた天候不順を加速させたことから、天明の大飢饉の原因の1つになったとされる(後述[41][42]

この年はアイスランドラキ火山などでも巨大噴火が起こり[43][44]、浅間山噴火とあいまって大量の火山灰が北半球を覆ったため[7][39]、世界的な低温・凶作が起こり[6][7]、天明飢饉だけでなくフランス革命の遠因にもなったと考えられている[45][46][47][48]

ギャラリー

噴火の経過

最初に鳴動が記録されたのは天明3年4月9日(旧暦)のことであった[11]。その後5月26日、6月27日と、1か月ごとに噴火と小康状態を繰り返しながら活動を続けていた。6月28日頃からは噴火や爆発を毎日繰り返すようになっていた。日を追うごとに間隔が短くなると共に激しさも増し、遠地の江戸や銚子などでも戸障子が振動したり降灰が見られたりするようになった[49]

7月7日(新暦8月4日[50])の夕方から翌日未明にかけて、噴火はクライマックスに達した[51]。北北東および北北西方向(浅間山から北方向に向かってV字型)に吾妻火砕流が発生し[52][53][注 2]、最大10km流れ下って[11]森林を破壊した[39][5][54][注 3]。関東の各地は、降り注ぐ火山灰により昼でも暗闇となった。この頃噴煙柱は高度約1万8,000mに達していたという[51]。この日の夕方、軽井沢では軽石の直撃で1人ないし2人が死亡した[56]

幸手宿における利根川大洪水の様子
(浅間山焼昇之記)

そして翌7月8日(新暦8月5日)の午前10時頃(巳の刻[57][58])に大爆発が発生し[10][59][60]、大爆発音は遠く京都[61]中国四国などでも聞こえたと伝わる。約3か月続いた活動によって山腹に堆積していた大量の噴出物が、爆発・噴火の震動に耐えきれずに崩壊。これらが大規模な土石雪崩となって北側へ高速で押し寄せた。これがいわゆる鎌原火砕流・岩屑なだれ(あるいは鎌原土石なだれ[注 4])である[62][51][63]。高速化した巨大な流れは、山麓の大地をえぐり取りながら流下[注 5]鎌原村を壊滅させた後[64]吾妻川に流れ込んで天明泥流と呼ばれる大規模泥流となり[65][66][67]、吾妻川沿いの村々を田畑や家屋ごと飲み込みながら流れ下り、渋川で本流となる利根川へと入り込んだ。このため、吾妻川・利根川の流域を中心に各地に大洪水を引き起こした。増水した利根川は押し流したもの全てを下流に運び、当時の利根川の本流であった江戸川にも泥流が流入して、多くの遺体が利根川の下流域と江戸川に打ち上げられた[68][69]。吾妻川・利根川を流下した一連の大泥流のうち[70]、一方は銚子に達して太平洋に流出(新暦8月6日頃)し[71][51][72]、他方は江戸川を経て江戸湾に到達した[11][73][40][74][75]

噴火が最も激しかった7月8日(8月5日)頃、浅間山の北側斜面には大規模な溶岩流が流れ下り[51][11]、後に凝固した[76][77]。これがいわゆる鬼押出し溶岩であり、今では観光名所となっている[78]。噴火の際「火口でが暴れて岩を押し出した」ように見えたことからこの名があるという[79][80][81]

また、噴火のピークの後は、各地に火山毛が降ったことが知られており[注 6]、こうした火山毛の一つを鑑定したところ、火山硫黄毛であったことが分かっている[83]

古記録から解読される天明三年(1783年)噴火の経過[注 7]
旧暦 新暦 噴火の状況
四月九日 5月9日 最初の噴火(噴火の開始、鳴動)[注 8]
この間(一か月半)は休止
五月二六日 6月25日 2度目の噴火(垂直な黒色の噴煙柱、音響と地響きを伴う鳴動、東南東・南東方向へ降灰)
五月二七日 6月26日 鳴動、諸国へ降灰
この間(約三週間)は休止
六月十八日 7月17日 火山雷、鳴動、北方向に降灰および軽石降下
この間(数日間)は記録なし
六月二二日から二七日 7月21日から26日 断続的に小規模な噴火(鳴動、降灰)
六月二八日 7月27日 午後から噴火(厚い噴煙、南西方向の遠方で鳴動、北東方向の遠方にも降灰)
六月二九日 7月28日 午後に噴火(200km以遠の地点を含め、広範囲かつ多数の地点で鳴動、北東・東南東で降灰)、江戸で降灰・戸障子振動[27]
七月一日 7月29日 午後2時以降に噴火、3時から4時頃に激しくなり、日暮れ時(7時頃)に止む(約5時間ほどの噴火の間に強度の噴火パルス、鳴動、440km離れた東北の陸中国でも降灰)
七月二日 7月30日 正午頃から噴火、2時から3時頃に激しくなり、日暮れ頃に止む(東・東南東方向で降灰、午後遅くから深夜にかけて北方と東方で降灰)
七月三日 7月31日 午前2時頃に大鳴動、4時間以上弱い噴火が続く(北東と南東で降灰)
この間(一日前後)は静穏
七月五日 8月2日 プリニー式噴火が始まる。午後に継続的な噴火が数時間続く。夜から未明にかけて、四月(5月)以来、最も激しい噴火が連続的に起こる。火山雷・噴石のため、前掛山は火の海と化す[27]。東南東方向に夜通し激しい降灰、江戸でも降灰。名古屋など、多くの地点で鳴動。
七月六日 8月3日 朝から降灰が続く。午後から翌朝にかけて、強度には変動がみられるも連続的な噴火。東南東方向で激しい火砕物降下。牙山にも噴石落下[27]。午後5時頃、上野国で赤い灰が降る。銚子でも降灰[27]金沢、名古屋で鳴動が盛衰。
七月七日 8月4日 前日から続く噴火は正午前から激しくなり、東方で大雨のような激しい降灰、東南東は暗闇に包まれる。200km圏内で鳴動。午後4時頃、北東の山腹斜面に吾妻火砕流が流出、東南東方向では噴煙が途切れ、一時的に晴れ間が見える。夜から翌朝にかけ、10時間前後の連続的な噴火、噴火の最盛期を迎える(東方へたなびく噴煙と火山雷、火柱や「火の玉」を含む火砕物降下、特に東南東で最も激しい火砕物降下、夕立や雨霰のように降ると形容。200km以上離れた数地点で空が赤く見える。関西では地震のような鳴動)夜間に鬼押出溶岩が山頂火口から流出開始か。
七月八日 8月5日 東へたなびく厚い噴煙の影響で、南麓では西から夜が明ける。東南東方向では降灰が続く。午前10時頃、大爆発とともに鎌原火砕流および岩屑なだれが発生。一部は北麓の鎌原村を埋没させ、一部は柳井沼や地下水を取り込みながら吾妻川に突入し、天明泥流となり、流れ下って利根川に合流、同水系の流域の広範囲に被害を与えた後、翌日の晩には銚子に到達し[85]、太平洋に流出[51]。正午には地震が止む。昼頃と夕方、東から東南東方向では、泥や泥雨が降る。
八月(9月)頃まで活動続く

以下の地図は、吾妻火砕流や鎌原火砕流・岩屑なだれ、鬼押出溶岩流、天明泥流などの分布を示したものである[39]

凡例

  •   鬼押出溶岩流
  •   吾妻火砕流
  •   鎌原火砕流・岩屑なだれ
  •   天明泥流 (土砂堆積)
  •   天明泥流 (泥水)

記録

この噴火の記録は極めて多数の資料や文献に残されている[86]。地元の無量院住職手記といわれる『浅間大変覚書』[87]のほか、天明雑変記、信濃国浅間岳之記、天明浅間山焼見聞覚書、浅間山津波実記、浅間山大焼無二物語、浅間山大変日記など、膨大な記録がある[30]。このほか、杉田玄白による「後見草」にも噴火災害の様子が記されている[88]

当時の記録によれば、まるで天地が崩れるような恐ろしい災害であったらしく[89]地震のような激しい鳴動が起き、灰や石、泥などが雨のように降り、人々は生きた心地もしなかったという。山からは熱湯が噴き出して泥火石などが高さ約300m(百丈余)噴出したばかりか、大規模なだれが神社仏閣や民家、草木などを全て押し流し、人馬もろとも流出、あたりは泥の海と化し多数の流死者が出たと伝わる[90]

噴火開始の記録[91]
先当四月九日焼候所拾里四方二て雷電かじしんかと思ヘハ浅間二焼立焼上ル — 『浅間記(浅間山津波実記)』 富沢久兵衛
天命三卯四月九日初に焼出し煙四方に覆、大地鳴ひゝき地震の如し。 — 『浅間大変覚書』〔無量院住職〕
吾妻火砕流の記録[92]
七月七日 山より熱湯湧出しおし下し、南木の御木見る内に皆燃へ尽す。 — 『浅間大変覚書』〔無量院住職〕
七日ノ申ノ刻頃浅間より少し押出シ、なぎの原えぬつと押しひろがりニリ四方斗り押しちらし止ル。 — 『浅間記(浅間山津波実記)』富沢久兵衛
... 山より北石とまりまで其日三度押し出し — 『浅間焼出大変記』大武山義珍
一, ...又其辺一里四方一面に硫黄押埋煙立事霧し。或は大地の割目有石を落 し心みるに深サ壱丈五, 六尺も有足の下とろとろと鳴,年 を越ても道行人割 たる穴にて莫著呑付歩 行。夫より西え行て方半里程, 大木半より末斗残て有。是は御林焼折打折押出しなるものと見へしよし。 — 『天明雑変記』佐藤雄右衛門将信
鎌原のなだれの記録[90]
一, 同八日朝より間もなく鳴神之如く,みな草木迄大風吹来ル如く二ゆれわたり,神仏之石之塔ゆりくたき,人々心持悪しく,念仏諸仏神二祈誓し所に, 四ツ半時分...第壱番の水崎二くろ鬼と見得し物大地をうこかし,家の囲ひ,森其外何百年共なく年をへたる老木みな押くじき,砂音つなみ土を掃立,しんとふ雷電し,第弐の泥火石百丈余高く打あけ,青竜くれないの舌をまき,両眼日月のことし。一時斗闇之夜二して火石之光りいかずち百万之ひゞ き,天 地崩るゝことく,火焔之ほのふそらをつきぬくはかり、 田畑高面之場所右不残るたゞー面之泥海之如し。何の畑境か是をしらんや。老若男女流死。 — 『浅聞焼出大変記』大武山義珍
八日昼四ツ半時分少鳴音静なり。直に熱湯一度に 水勢百丈余 り山より湧出し原一面に押出し, ...大方の様子 は浅間湧出時々山の根頻 りにひつしほひつしほと鳴りわちわちと言より黒煙一さんに鎌原の方へおし, — 『浅間大変覚書』〔無量院住職〕
八日之四ツ時既二押出ス。浅間山煙り中二廿丈斗 り之柱 立てたるごとくまつくろなるもの吹出スと見るまもなく直二鎌原 ノ方へぶつかへり,鎌 原より横 え三里余り押ひろがり,鎌原,小宿,大前,細久保四ケ村一度つつと押はらい, — 『浅間記(浅間山津波実記)』富沢久兵衛
八日の辰の刻頃鉢料 よ り石泥 を数百軒高く吹揚柱 の如く衝立テ 〔この日の巳の刻過東上州迄黒き泥ふ りける〕天も堕ち地も裂るゝ斗なるすさまじき音にて北の方へ倒れ, — 『天明浅嶽砂降記』常見一之
巳ノ刻頃沢々川霧の如く覆ひ,絶頂より沸出し,既に東南を覆ふと見へしが,何 となく雲霧の中にざ わ ざわ と云音有 り。...瞼岨の地成レば岩石に当て二夕筋に別れ,下押は鎌原江押出し,一 ト筋は大前村江押出し夫より吾妻川江押入り死失の程勝計難し。 — 『信濃国浅間嶽焼荒記(浅間嶽焼記)』成風亭春道
一, ...夫より泥三筋二分レ北西ノ方へ西窪ヲ押抜ケ是より逆水ニテ大前高ウシ両村ヲ押抜ケ中ノ筋 ハ羽尾村へ押かけ,北 東ノ方ハ小宿村ヲ推抜ク.羽尾小宿の問にて芦生 田抜ル。 — 『砂降候以後之記録』毛呂義郷
羽鳥一紅による『文月浅間記』

羽鳥一紅(はとり いっこう、1724年〜1795年[注 9])は、江戸時代中期の高崎の女流俳人である[93][94][95][96]。天明の浅間山噴火時、山から45km離れた高崎にいた彼女は、自身の代表作である『文月浅間記 (ふみづきあさまき)[97][93][注 10]』にて、噴火による惨状を詳細かつ生々しく記録した[98][97][99]。それによると、ある日は霜が降るような降灰や山鳴りがあり、またある日には山が鳴動して炎が花火のように燃え上がり、雷や降砂が断続的に続くなどした結果、人々は降り積もる砂や灰にひたすら悩まされたと書かれている(羽鳥一紅『文月浅間記』)。

被害と復興

被害の概要

  • 死者 1,624人(うち上野国一帯だけで1,400人以上)[100]
  • 流失家屋 1,151戸[11]
  • 焼失家屋 51戸[100]
  • 倒壊家屋 130戸余り[100]

鎌原村の大被害

鎌原村の鎌原観音堂

被害が最も甚大だったのは、当時宿場町として栄えていた(浅間山北麓の)上野国吾妻郡鎌原村(現在の群馬県嬬恋村鎌原地区にあたる[101][102])であり[33][103]、火砕流や土石雪崩等の直撃を受けて埋没し、村の人口570人のうち83.7%にあたる477人が死亡した[73][98][11]。この時の生存者93人は、高所の鎌原観音堂に避難していた住民らであった[35][78][104]。これに加えて、93軒の家屋が破壊され、馬は200頭のうち170頭が死亡したとされる[105][106]。村の耕地の95%以上が荒廃した[98]

鎌原村を直撃した鎌原火砕流は[107]、天明大噴火で発生した火砕流のうち最大の規模・破壊力を持つものであった。その流下量は約1億m3であったと推定されている[108]

埋没した鎌原村は後に、イタリアヴェスヴィオ山噴火遺跡になぞらえて日本のポンペイ[109]とも呼ばれるようになった[24][35][110][111]。1979年から行われたこの地域の考古学的発掘調査によって、鎌原観音堂の埋没した石段の最下部からは2体の女性の白骨遺体が発見された[112]。災害発生時、この2人の女性のうち1人がもう1人を背負って避難しようとしていたが、間に合わずに土石流に巻き込まれて死亡したことがわかった[113]

なお、長らく溶岩流や火砕流が土砂移動の原因と考えられてきたが、「高温の熱泥流」ではなく「低温の乾燥粉体流」が災害の主要因であった可能性が高いことが、近年の調査によってわかった[114][115]。鎌原村の地質調査の結果、天明3年の噴出物は全体の5%ほどしかないことが判明。また、1979年から嬬恋村によって行われた発掘調査では、3軒の民家を確認できたが、出土品に焦げたり燃えたりしたものが極めて少ないことから、常温の土石が主成分であることがわかっている。このため早川由紀夫らは「鎌原村を襲ったのは高温の火砕流ではなく低温の土砂の流れであった」としている[116]。また、一部は溶岩が火口付近に堆積し溶結し再流動して流下した火砕成溶岩の一部であると考えられている。

今や鎌原村は日本の貴重な災害遺跡の1つであるため、鎌原遺跡として将来的な国史跡への指定が目指されている[117]

その他の地域の被害

軽井沢
軽井沢宿において、降り注ぐ火山噴出物から逃げまどう人々 (浅間山焼昇之記)

報告書によると、信濃国軽井沢宿は以下のような様子であったという(当時の記録に基づく)。

軽井沢宿では、6月29日から震動のため家鳴りが激しく、宿の百姓たちの一部は追々避難した。7月には、石・砂が4、5尺(約120~150cm)の厚さに積もった(ただし、この数字は誇張されており、実際の厚さは4、50cmであった)。

7月7日の夜には、激しい震動のため戸のはめが外れるほどであった。1尺(約30cm)四方 もある大石が燃えながら飛んできて、民家の屋根に燃えつき一面の火災となった。石に潰された家も多かった。8日には、泥状のものが雨のように降り、そのため積もった石・砂が固まってしまい除去が困難になった。宿の人々は、7日から8日にかけての夜に、戸・桶・夜具など を頭にかぶって落下する石を避けながら、6、7里(約24~28km)も離れた他村へと避難した。その際、1人が石に打たれて即死した。

家屋の被害は、倒壊家屋70軒、焼失家屋51軒、大破65軒であり、全戸が何らかの被害を受けた。 — 中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会、『1783 天明浅間山噴火 報告書』106頁、[98]
江戸

遠く離れた江戸でも噴火の影響は大きく、約3cm降灰し[118]昼間でも灯りを要するほど暗くなったという。報告書によると以下のような記録がある。

7月6日の暮れから、戸・障子・建具などが何となくビリビリと地鳴り震動した。7日の午前10時ごろまでは、空が霞がかかったように一円に曇り、昼ごろからチラチラと風に乗って灰が降った。暮れごろから次第に鳴響きが強くなり、灰・砂の降り方も激しくなった。夜中には 遠雷のような音がして激しく震動し、灰・砂も雨のように降った。 8日朝には、空が土色になり、午前10時ごろになっても明け方のように薄暗かった。少し雨が降り、午後0時ごろから次第に晴れてきたが砂は少しずつ降り続いた。午後2時ごろからまた地鳴り震動が起こり、夜まで続いた。2寸~1尺(約6~30cm)くらいの白い馬の毛のようなものが降り、中に赤いものも交じっていた。9日午後10時過ぎから雨になり、灰・砂はようやくしずまった。 — 中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会、『1783 天明浅間山噴火 報告書』107頁、[98]

武蔵国金町村(現東京都葛飾区金町)の名主によると「7月9日午後2時頃から江戸川の水が泥で濁り、根を付けたままで折れた木や、粉々になった家財道具・材木などが川一面に流れてきた。中に、損壊した人や牛馬の死骸もたくさん交じっていた。午後8時過ぎから流下物は次第に減っていった」とのことである (浅間山焼記録)[98]。俳人の小林一茶も江戸で天明泥流を経験しており、その様子を『寛政三年紀行』に記している[119]

その他

現在の岩手県宮古市 (田老) でも降灰があったことや和歌山県田辺市でも鳴動があったことが、近年の調査でわかった[120][121]

復興

発災後、幕府はすぐに復旧事業を行なった。最大の被害を受けた鎌原村には850両(約1億円)の復興資金が幕府により支払われた[98][注 11]

近隣の有力百姓である大笹村黒岩長左衛門、干俣村干川小兵衛、大戸村加部安左衛門らが直ちに救援活動を行い、生存者を支えた[98][106][122]。鎌原村の復興は、家族の再構成や家屋の再建、荒れ地の再開発・再配分などによって行われた[105][106]

幕府の復興対策責任者となり現地に派遣された根岸九郎左衛門の随筆『耳袋』には、以下のような記述がある (現代語訳)[98][123]

当時の百姓たちは、家筋とか素性といったことに大変こだわり、相手に応じてあいさつの仕方などにも差別があった。例えば、現在は金持ちでも、古くからの由緒がある有力者でなければ、座敷にも上げないといったことがあった。

浅間山噴火の被災者を収容する建物を建てた当初、3人の者たち(黒岩長左衛門・干川小兵衛・加部安左衛門)はこの点に配慮して、「このような大災害に遭っても生き残った93人は、互いに血のつながった一族だと思わなければいけない」と言って、生存者たちに親族の誓いをさせて、家筋や素性の差を取り払った。

その後、追々家屋も再建されたので、3人は、93人の中で、夫を亡くした妻と妻を亡くした 夫とを再婚させ、また子を亡くした老人に親を亡くした子を養子として養わせるなどして、93人全員を実際に一族としてまとめ直し、その門出を酒・肴を贈って祝った。誠に非常時における有力百姓の対応の仕方は興味深い。 — 根岸九郎左衛門、『耳袋』 (現代語訳)、中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会『1783 天明浅間山噴火 報告書』114頁[98]

つまり鎌原村では、生存者同士(男女)が結婚して新たな家庭を築くなどの出来事があったということである[124]

二次被害と影響

泥流とその影響

前述の通り、噴火によって発生した大規模泥流は、吾妻川・利根川を流下したため、流域の村々を次々に飲み込んで洪水などによる大被害を与えた。堆積した火山灰は利根川本川に大量の土砂を流出させ、天明3年の水害や天明6年の水害などの二次災害被害を引き起こした[108]。天明泥流の被害を受けた川原畑村(家屋21軒が流れ4人が死亡[125][126][注 12])では、天明3年分の年貢が前年の17以下にとどまる事態になったという[127]。天明大噴火による泥流被害は、後の利根川の治水などにも大きな影響を与えた[128]。長野原町小宿にあった常林寺の梵鐘は、噴火による土石流で押し流されたが、明治43年の大水害後、15km下流で見つかった[129]。また、その龍頭は1983年に嬬恋村今井の川原で発見された。

天明泥流によって深刻な被害を受けた吾妻川・利根川流域には、各地に流死者を供養する碑などが見られる。2021年現在までに、群馬・埼玉・東京・千葉・長野の1都4県で140以上の供養碑や災害記念碑などが見つかっている[130]。文化12(1815)年に建てられた鎌原観音堂の「三十三回忌供養塔」には、

天明三癸卯歳七月八日己下刻従浅間山火石泥砂押出於当村四百七十七人流死為菩提建之 文化十二乙亥歳七月八日 — 三十三回忌供養塔

とあり、鎌原村で流死した477人の戒名が刻まれている[98]

吾妻川沿いの流れ石 (渋川市川島)
群馬県指定天然記念物「金島の浅間石」

また、天明泥流は、巨大な岩塊を100km以上移動させるほどであったといわれ[24]、現在も吾妻川・利根川流域には、泥流により流された浅間石と呼ばれる大岩が各所に存在する[24][128]。渋川市川島にある「金島の浅間石」(大きさは東西15m・南北9.5m・高さ4m)もその1つで、群馬県指定天然記念物となっている[131][128][132]

天明の飢饉との関連

浅間山の天明大噴火は、天明の大飢饉の原因の1つにもなったと広く認識されている[133][134][135]。各地に大量の火山灰を降らせて激しい凶作をもたらしたため、既に各地で進行していた大飢饉に拍車をかけて、結果的に天明の大飢饉をより深刻なものとした[136][112]

一方で同じ年には、東北地方北部にある岩木山が噴火(4月13日・天明3年3月12日)するばかりか、アイスランドラキ火山の巨大噴火(6月8日)やグリムスヴォトン火山の長期噴火等も起き、桁違いに大きい膨大な量の火山ガス成層圏まで上昇。噴火に因る塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させたことから、北半球に低温化・冷害をもたらしている(#他国への影響も参照)[7][39]

いずれにせよ、既に深刻になっていた飢饉に対して、1783年に世界各地で相次いだ火山噴火(浅間山を含む)が拍車をかけて、結果的に事態をより悪化させたのはほぼ確実であると言えよう[51]

天明上信騒動と政治的な影響

田沼意次

噴火災害により作物がほぼ全滅して深刻な食糧不足が起きたため、上野国・信濃国では百姓一揆や打ちこわしが発生した。これを天明上信騒動という[137][注 13]。米価が高騰し、米屋の買占めなどがあり、中山道の馬子・人夫・駕籠かきらが米屋を襲撃した[137]

1783年当時は、老中田沼意次が幕府の実権を握っていた田沼時代であったが[24]、大噴火が一因となった大飢饉とそれに伴う百姓一揆などの結果として、田沼意次を失脚に追い込んだものと考えられている[62][138]

他国への影響

浅間山の火山噴出物は、地球を半周して世界中に間接的な影響を与えた[139]北半球の気温は年間1.3度も低下[140][141]ヨーロッパでも低温などの異常気象が起きて凶作などにつながり、結果としてフランス革命の発生につながったといわれる[140][141][142][143]グリーンランド氷河からも、1783年の浅間山の火山灰が確認されている[144][139][145][146]

文化的な影響

浅間山の天明大噴火は、様々な文化的活動にも影響を与えた。噴火により、米相場が非常に高騰し江戸でも灰が降ったという事実は、以下のような化政文化狂歌においても言及されている[147]

浅間しや 富士より高き 米相場
火の降る江戸に 砂の降るとは

明治初年、鎌原地区では災害の死者を弔うため、七五調の和讃『浅間山噴火大和讃』が作られた[57]。また、大噴火を記録した絵図は、オランダ商館長のイサーク・ティチングによって『将軍列伝』(1820) の挿絵としてヨーロッパにも紹介された[37][148][149][150]。このほか、群馬県の郷土かるたである上毛かるたには[151]、天明大噴火を起こした浅間山を詠んだ「浅間のいたずら 鬼の押出し」という札がある[152][153]

脚注

注釈

  1. ^ 2000年代の発掘では、火山灰は遠く栃木県鬼怒川から茨城県霞ヶ浦埼玉県北部にまで降下していることが確認された。(出典: 石弘之『歴史を変えた火山噴火 -自然災害の環境史-』105ページ)
  2. ^ ただし、北北東の方が流下量は圧倒的に多かった。この火砕流はいずれも群馬県側に流下した。
  3. ^ この「吾妻火砕流」の堆積物は現在溶結しており、浅間山北斜面の「六里ヶ原」地域に広く分布している[39]。また「吾妻火砕流」は樹型を形成しており、現在その跡は「浅間山熔岩樹型」として特別天然記念物に指定されている[55]
  4. ^ 鎌原村を襲ったこの火山現象は、「火砕流」の性質を持ちつつ「岩屑なだれ」の性質も含んでいたかなり特殊な現象であったため、研究者によって解釈や名称がまちまちで、現在もはっきりとした結論は出ていない。長らくは高温の火砕流・岩屑雪崩と考えられていたため、中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会 (2006)では「鎌原火砕流/岩屑なだれ」としているが、近年の研究によると高温のそれらではなく低温の土石雪崩であった可能性があり、早川由紀夫井上公夫らのように「鎌原土石なだれ」等の表現を用いる研究者も多い(詳細は[1]を参照)。本項では、火山現象としての性質があったことに着目し(一般的な土石流等と区別する意味で)、内閣府報告書に倣って「鎌原火砕流/岩屑なだれ」の表現を用いることとする。
  5. ^ 渡辺 (2003), p. 3 によれば、鎌原火砕流は時速100km以上で流下し、その間に多量の土砂を巻き込みながら岩屑流になったとされる。
  6. ^ 長野県須坂市の山下八右衛門家文書には「天明三癸卯年七月六日ヨリ八日迄浅間山大焼之節砂石共降毛」とある[82]
  7. ^ 災害教訓の継承に関する専門調査会 (2006), p. 14および井上 (2009), p. 19をもとに作成。両文献の表の内容はいずれも『浅間山天明噴火史料集成』(萩原 1985-1995)を原典としている。以下の表では、特に注記のない場合、両表の内容を出典とした。
  8. ^ 四月八日(5月8日)とする説 (田村・早川 1995, pp. 845–846) もあるが、史料の誤記の可能性もあり[84]
  9. ^ 享保9年-寛政7年
  10. ^ 渡辺 (2003), p. 197 によれば、噴火の翌年(天明4年)の成立とされる。
  11. ^ 復旧費用の一部は、幕府に命じられた熊本藩により負担されたが、その理由は定かではない。
  12. ^ 『浅間記』(富沢久兵衛)による
  13. ^ 群馬県では「安中騒動」と呼ばれており、長野県では「天明騒動」もしくは「天明佐久騒動」と呼ばれている。

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  153. ^ 浅間のいたずら 鬼の押出し (PDF) - 群馬県埋蔵文化財調査事業団 (P.2)

参考文献

関連項目

外部リンク