阿蘇惟時
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時代 | 鎌倉時代末期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 正平8年/文和2年(1353年) |
別名 | 宇治惟時 |
氏族 | 阿蘇氏 |
父母 | 父:阿蘇惟国 |
子 |
惟直、坂梨孫熊丸、阿蘇惟澄室、 惟成[1]、惟定 養子:惟澄(恵良惟資子)、 惟村(阿蘇惟澄子) |
阿蘇 惟時(あそ これとき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。阿蘇大宮司。
略歴
[編集]1319年には、大宮司に任命されていた(『神道体系』阿蘇・英彦山所収)。
元弘3年(1333年)に後醍醐天皇の綸旨を受けて、南朝に帰す。六波羅探題攻略や足利尊氏との戦いに参戦した。その後、長男・惟直に家督を譲って隠居した。(南朝)
延元元年/建武3年(1336年)に惟直が多々良浜の戦いに敗れて自害したため、再び家督を継ぐ事となった。北朝方の足利尊氏の調略で惟時の庶子・坂梨孫熊丸が相続者として大宮司に選ばれたため、阿蘇氏内部で内紛が発生する。惟時は北朝側に寝返った。(北朝)
1344年10月28日、征西府が惟時を北朝方に帰したことを心配し、阿蘇惟澄宛てに令旨写を送る。(北朝)
正平4年/貞和5年(1349年)9月26日、惟時は、再び南朝側に帰順する(五条頼元書状写)。(南朝)
同年、10月28日、惟時は、再び北朝方へ寝返る(征西将軍令旨写)。(北朝)
1350年7月19日、足利将軍家御判御教書により、北朝幕府方から北朝大宮司として任命される。(北朝)
同年、11月8日、惟時は、再び南朝へ帰順する(五条頼元言上状写)。(南朝)
正平6年/観応2年(1351年)、家督を養嗣子・惟村に譲る。足利直義が惟時に御教書を下し、阿蘇大宮司を認める。(北朝)
しかし、惟村の実父・惟澄が当主となって実権を握っていた。正平8年/文和2年(1353年)に死去。
脚注
[編集]出典
[編集]- 熊本日日新聞編纂・発行『熊本県大百科事典』、1982年
- 熊本の風土とこころ編集委員会『熊本の人物』熊本日日新聞社、1980年、38-39頁
- 阿蘇惟之編『阿蘇神社』学生社、2007年