阿部平輔
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阿部 平輔 | |
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生誕 |
1886年12月18日 宮城県 |
死没 |
1943年6月11日(56歳没) オーストラリア ニューギニア島 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1909 - 1943 |
最終階級 | 陸軍中将 |
墓所 | 多磨霊園 |
阿部 平輔(あべ へいすけ、1886年(明治19年)12月18日[1] - 1943年(昭和18年)6月11日[1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]宮城県出身[1]。1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業[1][2]。同年12月、歩兵少尉に任官[2]。
1934年(昭和9年)3月、熊本陸軍教導学校学生隊長に就任[3]。1935年(昭和10年)8月、歩兵大佐に昇進[3]。1936年(昭和11年)12月、関東軍下士官候補生隊長[3]。1938年(昭和13年)2月、関東軍附となり、同年3月、第8国境守備隊第2地区隊長に転ずる[3]。同年12月、陸軍少将に進級[3]。同月、第8国境守備隊長に就任[1][3]。ノモンハン事件に参戦[1]。1940年(昭和15年)8月、内地に帰還し盛岡陸軍予備士官学校長となる[1][3]。1941年(昭和16年)7月、留守第20師団長に転じ朝鮮に赴任[1][3]。同年8月、陸軍中将に昇進し太平洋戦争を迎えた[1][3]。
1942年(昭和17年)7月、第41師団長に親補され華北に赴任したが[1][3]、同年11月、師団はニューギニアに転用され、ニューギニアの戦いに参戦。苦戦を続ける中で、1943年6月にウェワクで戦病死した。
栄典
[編集]- 位階
- 1910年(明治43年)2月21日 - 正八位[4]
- 1913年(大正2年)4月21日 - 従七位[5]
- 1918年(大正7年)5月20日 - 正七位[6]
- 1923年(大正12年)7月31日 - 従六位[7]
- 1928年(昭和3年)9月1日 - 正六位[8]
- 1938年(昭和13年)10月1日 - 正五位
- 1941年(昭和16年)10月15日 - 従四位
- 1943年(昭和18年)6月11日 - 正四位
- 勲章
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。