降旗元太郎
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降旗 元太郎(ふるはた もとたろう、元治元年5月7日[1](1864年6月10日) - 昭和6年(1931年)9月15日[2])は、日本の衆議院議員(憲政党→憲政本党→立憲同志会→憲政会→立憲民政党)。
経歴
[編集]信濃国筑摩郡本郷村(現在の長野県松本市)出身。郷里で漢学を学んだ後、慶應義塾に入学した。1882年、東京専門学校(現在の早稲田大学)に転入学し、1885年に同校邦語政治科を卒業[3]した。卒業後は帰郷し、1886年に信陽日報(のち信濃日報)の社長となった[4]。さらに本郷蚕種業組合組長・信濃蚕業伝習所長などの役職を歴任して、養蚕業の発展に貢献した[5]。その他、出獄人保護院も設立している[6]。
1888年、長野県会議員に選出され、1891年には信濃民党を組織した[7]。1898年、第5回衆議院議員総選挙に立候補し、当選[8]。河野広中、中村弥六、花井卓蔵とともに普通選挙の実現に尽力した[5]。加藤高明内閣で鉄道政務次官・陸軍政務次官、第1次若槻内閣で海軍政務次官を歴任した。
親族
[編集]評伝
[編集]- 井上義和『降旗元太郎の理想 名望家政治から大衆政治へ』〈近代日本メディア議員列伝2〉創元社 2023年。ISBN 978-4422301020
脚注
[編集]- ^ 漆崎多四郎編『貴衆両院議員名鑑』漆崎多四郎、1919年、p.14
- ^ 『官報』第1426号、昭和6年9月29日、p.719
- ^ 『会員名簿 昭和2年11月』早稲田大学校友会、1927年、p.1
- ^ 広幡明男『大正十三年五月当選 代議士詳覧』泰山堂、1924年、323頁。
- ^ a b 加藤紫泉「白薔薇の暁将」『新代議士名鑑』国民教育会、1924年、196頁。
- ^ 『衆議院要覧 昭和5年4月 乙』衆議院事務局、1930年、p.154
- ^ 『新選代議士列伝』金港堂、1902年、343頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 明治45年2月』衆議院事務局、1912年、p.90