陳懋
陳 懋(ちん ぼう、洪武13年(1380年)- 天順7年7月16日(1463年7月31日))は、明代の軍人。本貫は寿州。
生涯
[編集]陳亨の末子として生まれた。はじめ舎人として従軍し、功を立てて指揮僉事となった。陳亨の兵を率いて功績が多く、右都督に累進した。永楽元年(1403年)、寧陽伯に封じられ、禄1000石を受けた。永楽6年(1408年)3月、征西将軍の号を受け、寧夏に駐屯し、降兵を慰撫した。永楽7年(1409年)秋、北元の丞相昝卜と平章・司徒・国公・知院十数人が人々を率いて相次いで来降した。平章の都連らが離反して去ると、陳懋はこれを追って黒山で捕らえ、その部衆や家畜を収容した。爵位を寧陽侯に進められ、禄200石を加増された。
永楽8年(1410年)、陳懋は永楽帝の第一次漠北遠征に従い、左掖を監督した。永楽11年(1413年)、寧夏の辺境を巡察した。ほどなく山西・陝西二都司および鞏昌・平涼諸衛の兵を率いるよう命じられ、宣府に駐屯した。永楽12年(1414年)、永楽帝の第二次漠北遠征に従い、左哨を管轄した。忽失温で戦い、成山侯王通とともに軍の先頭に立ち、都督朱崇らがこれに乗じて、大勝をおさめた。永楽13年(1415年)、陳懋は再び寧夏に駐屯した。永楽20年(1422年)、永楽帝の第三次漠北遠征に従った。御前精騎を率いて敵軍を屈烈河で破った。別に5000騎を率いて屈烈河の東北を巡り、残党を捕らえ、山沢中でこれを殲滅した。軍を返すと、武安侯鄭亨に輜重を率いて先行させ、陳懋は狭隘な地に兵を待ち伏せさせた。敵軍がやってくると、伏兵で攻撃し、敵軍の過半を死なせた。北京に帰ると、龍衣玉帯を賜り、陳懋の娘が麗妃に冊立された。永楽21年(1423年)、陳懋は陝西・寧夏・甘粛三鎮の兵を率いて、北元のアルクタイに対する遠征(第四次漠北遠征)に従い、先鋒をつとめた。永楽22年(1424年)、再び先鋒をつとめ、永楽帝の第五次漠北遠征に従った。
永楽帝が楡木川で死去したとき、明の六軍はいずれも外地にあり、北京の守備は弱体であった。洪熙帝は陳懋と陽武侯薛禄に精鋭の騎兵3000を率いて帰還させ、北京を守らせた。陳懋は前府を管掌し、太保の位を加えられ、侯爵を世襲する権利を与えられた。宣徳元年(1426年)、楽安州に拠る朱高煦の討伐に従った。凱旋すると、寧夏に赴任して駐屯した。宣徳3年(1428年)、霊州城への移鎮を上奏した。黒白2羽のウサギを献上して、宣徳帝に喜ばれ、帝自らが描いた馬の絵を賜った。陳懋は寧夏に駐屯すること久しく、威名は漠北に鳴り響いた。宣徳帝の信任を頼みに勝手気儘に振る舞い、巨万の財産を蓄えた。たびたび弾劾を受けたが、宣徳帝は曲げてこれを許し、陳懋の不正に蓄えた財産を没収するよう命じた。
宣徳10年(1435年)、英宗が即位すると、陳懋は張輔とともに参議朝政を命じられ、平羌将軍として出向し、甘粛に駐屯した。その冬、敵が駐屯所を攻撃してくると、陳懋は兵を派遣して救援し、敵を撃退し、敵兵を斬り捕らえて報告した。参賛侍郎の柴車は陳懋が規律を失って敵の侵攻を招き、残された老弱な敵兵の身柄を奪って、都指揮の馬亮らが功によって賞を受けるのを妨げたと弾劾し、斬刑に相当すると論告した。勅命により陳懋は一死を免じられたが、禄を剥奪された。長らくを経て禄をもどされ、奉朝請とされた。正統13年(1448年)、福建で鄧茂七の乱が起こった。都御史の張楷がこの反乱を討ったが鎮圧できず、陳懋が征南将軍の号を受けて、総兵官とされ、京営・江浙の兵を率いて討伐に向かった。陳懋が浙江に達すると、兵を分けて海口を押さえようという者がいたが、陳懋は「賊を死なせるのはわたしだ」といって許可しなかった。正統14年(1449年)、陳懋が建寧に到着すると、鄧茂七はすでに戦死しており、その残党が尤渓・沙県に集まっていた。官軍の諸将はこれを殲滅しようと望んだが、陳懋は「それは賊の心を堅くするだけだ」といって、招撫して下すよう命じ、反乱軍の多くを降伏させた。道を分かれて追捕にあたり、反乱を全て平定した。沙県で反乱が再び起こったが、平定できなかった。ときに土木の変で英宗がオイラトに捕らえられて北方に連行され、景泰帝が立つと、陳懋は軍を返すよう命じられた。このとき陳懋は弾劾を受けていたが、反乱平定の功績により不問とされた。そのまま太保の位を加えられ、中府を管掌し、宗人府の事務を兼領した。天順元年(1457年)、英宗が復位すると、陳懋は禄200石を加増された。天順7年(1463年)、死去した。享年は84。濬国公の位を追贈された。諡は武靖といった。
子女
[編集]- 陳晟(長男、罪を受けた)
- 陳潤(兄の陳晟が罪を受けたため、後嗣として寧陽侯となった)
- 陳瑛(兄の陳潤が死去すると、禄を半減された上で寧陽侯位を嗣いだ。陳晟の子の陳輔が成長すると、陳輔に侯位を嗣がせた)
- 陳氏(永楽帝の後宮に入り、麗妃に冊立された)
参考文献
[編集]- 『明史』巻145 列伝第33