隅田川浪五郎
隅田川 浪五郎(すみだがわ なみごろう、天保元年(1830年) - 没年不詳)は、幕末明治期の手品師、曲芸師である。江戸生まれ。日本で初めてパスポートを取得した人物である。
生涯
[編集]アメリカ人のサーカス曲芸師リチャード・リズリー・カーライル(1864年に来日し、西洋式曲芸を日本で初めて披露した)の誘いで自身の一家4名と、濱碇定吉の一家7名と、松井菊治郎の一家5名らと伴に「帝国日本芸人一座(英語: Imperial Japanese Troupe)」となった隅田川は、パリ万国博覧会出演を目指し渡米する。その際、慶應2年10月17日(1866年11月23日)付で、江戸幕府の外国奉行から印章を取得した。これが日本国旅券の第1号である[1]。なお日本国旅券には、神田相生町に住み年齢三七歳、身長五尺と記載されていた。
一行はリズリーをマネージャーに、慶應3年1月からサンフランシスコを始め全米各地を巡業し絶賛され[2][3]、4月にはジョンソン大統領にまで謁見し、その後ニューヨーク市で6週間滞在、1867年にはパリ万国博覧会に出演し、3か月フランスのパリに滞在、イギリスのロンドンで11週間の滞在を始め、オランダ・スペイン・ポルトガルなど、ヨーロッパ各地を回り、ジャパニーズ・アクロバット・ブームを引き起こした[2][4]。
明治2年(1869年)に帰国、1875年にフランス人に誘われ再び出国、帰国後は「三遊亭遊成」の名で寄席に出演した。
紙で作った蝶を扇子で仰ぎ、自由に舞い遊ばせる奇術「胡蝶の舞」を得意としていた。1867年1月9日、サンフランシスコのアカデミー・オブ・ミュージックにて「Butterfly Trick(胡蝶の舞のこと)」を演じたことが記録に残っている。また、ル・モンド紙の1867年11月23日号にイラスト入りで紹介されるなど、パリでも賞賛された[5]。
脚注
[編集]- ^ “パスポート第1号 - 歴史公文書探究サイト『ぶん蔵』 BUNZO(2014年7月1日アーカイブ分)”. 国立公文書館. 2015年7月9日閲覧。
- ^ a b Professor Risley and the Imperial Japanese TroupeFrederik L. Schodt, Stone Bridge Press, Dec 4, 2012
- ^ "Japan's Early Experience of Contract Management in the Treaty Ports" Yuki Allyson Honjo, Routledge, Dec 19, 2013
- ^ Les Kiriki Acrobates Japonais
- ^ 河合 勝 (2008年3月). “日本古典奇術「胡蝶の舞」について” (PDF). 愛知江南短期大学 (『愛知江南短期大学 紀要 第37号』). 2015年7月9日閲覧。