雌鳥皇女
雌鳥皇女(めとりのひめみこ、生年不詳 - 仁徳天皇40年2月)は、『記紀』に伝えられる古墳時代(5世紀頃)の皇族(王族)。応神天皇の皇女。母は和珥臣(わにのおみ)の祖先の日触使主(ひふれのおみ)の娘である宮主宅媛(みやぬしやかひめ)(『古事記』では宮主矢河枝比売(みやぬしやかわえ の ひめ[1]))。菟道稚郎子皇子(うじ の わき の いらつこ の みこ)・八田皇女(矢田皇女、やた の ひめみこ)の同母妹[2]。『古事記』では女鳥王と記される。
経歴
[編集]『日本書紀』巻第十一によると、仁徳天皇は継室矢田皇女の妹で、異母妹である雌鳥皇女を妃にしようとして、媒酌人として二人にとって異母兄弟に当たる隼別皇子(はやぶさわけ の みこ)を遣わした(古事記では、八田若郎女は妃で、皇后は石之日売命(いわのひめ の みこと)のままである)。しかし、隼別皇子は、密かに彼女を妻にして命令に背いた。
『古事記』では仁徳天皇の皇后の嫉妬を恐れた皇女が、以下のように発言して、自らすすんで速総別命(はやぶさわけ の みこと)の妻になったとする[3]。
「大后(おほきさき)の強(おず)きに因りて八田若郎女(やた の わきいらつめ)を治め賜はず、故(かれ)、仕へ奉(まつ)らじと思ふ。吾(あ)は汝命(いましみこと)の女(め)に為らむ」(皇后のご気性が激しいので、天皇は八田若郎女を妃にお迎えになりません。ですから私もお仕えはいたしますまいと思います。私はあなたさまの妻になりましょう)(荻原康男:訳)[4]。
何も知らなかった天皇は雌鳥皇女の寝所へ行ったが、皇女に仕える機織女らの歌を聴き(『古事記』では門の外の敷居に坐って、互いに歌を交わした結果)真相を知り、恨んだが、皇后に気兼ねし、また兄弟としての交情を思い(二人の気持ちを慮って)一旦はこれを許した[5]。
しかし、二人は慢心して、「鷦鷯(さざき)と隼(はやぶさ)とどちらが速いか」と皇子が尋ねた際に、皇女は「隼の方が速い」と答えた。
『古事記』では、以下の歌を女鳥王が詠んだことになっている。
「雲雀(ひばり)は 天に翔(かけ)る 高行くや 速総別 鷦鷯取らさね」[4]
『書紀』によると、隼別皇子の舎人たちはこう詠んだという。
「隼は 天に上(のぼ)り 飛び翔(かけ)り 斎(いつき)が上の 鷦鷯取らさね」[5]
これらの言葉は、暗に大鷦鷯尊である天皇よりも、隼別の方が魅力的で能力面でも優れている、と天皇を誹謗したものである。
このことで、天皇は激怒し、私情を国事に及ぼさぬようにしてきた鬱憤を爆発させ、また二人が自分に対して謀反を起こそうとしていると知り、二人を殺そうと思った。隼別皇子が(罪を逃れるべく)伊勢神宮に雌鳥皇女ともども参拝しようとしているのを、天皇は自分たちから逃げたと解釈して、追っ手として、吉備品遅部雄鯽(きび の ほむちべ の おふな)・播磨佐伯直阿俄能胡(はりま の さえき の あたい あがのこ)らの軍兵を差し向けたという。このときに八田皇后は、「雌鳥皇女は重い罪を犯したが、だからといって装飾品をとりあげるなど、辱めるようなことはしないで欲しい」と申し上げたので、天皇はその命令を雄鯽らに伝えた[5]。
叛逆罪で逃亡した二人は、菟田の素珥山(そにのやま、現在の宇陀郡室生村の曽爾)を越えて(『古事記』では倉椅山(くらはしやま)、現在の桜井市倉橋にある音羽山)に登って歌を詠んだ。しかし、逃げ切ることは叶わず、伊勢国の蒋代野(こもしろのの)、『古事記』では宇陀の蘇邇(そに)で追いつかれて殺されてしまった[3]。
このときに、雄鯽らは皇女の死骸の裳の中から玉を見つけた。『古事記』では将軍の山部大楯連(やまべ の おおたて の むらじ)が女鳥王の手に巻いてある玉釧を着服して、妻に与えたことになっている。
その後、新嘗祭のあった月(11月)に、豊明節会(とよのあかりのせちえ)の宴会が開かれ、酒を五位以上の女たちに賜った。その際に、近江山君稚守山(おうみのやま の きみ わかもりやま)の妻と采女の磐坂媛(いわさか の ひめ)の手に雌鳥皇女の所有物だった珠があった。二人を詰問したところ、佐伯直阿俄能胡の妻から貰ったことが判明した。阿俄能湖は自白し、殺されるところだったが、自分の土地を献上して、赦免された。その土地は、玉代(たまて)と呼ばれた[5]。
『古事記』では温情措置は行われず、自分の主君筋の人間の手が(死んで間もない)温かいうちに剥ぎ取るとは言語道断だとして、大楯は死刑に処せられた[4]。
考証
[編集]上記の物語については、以下の特徴をあげることができる。
- 登場人物の名がすべて鳥に関連している。
- 短い歌謡群を中心につづられた物語である。仁徳天皇の物語には、古代歌謡が中心となった歌物語形式の箇所が非常に多い。
- 雌鳥皇女(女鳥王)は、姉である八田若郎女の待遇をめぐって天皇に抗議し、意欲的に生きる女性として描かれている。
- たとえ謀叛人でも、死者を穢すことはタブーであったが、このようなことはよく行われていた。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『古事記』完訳日本の古典1、小学館、1983年
- 『日本書紀』(二)、岩波文庫、1994年
- 『日本書紀』全現代語訳(上)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1988年
- 『日本古代氏族人名辞典』、吉川弘文館、坂本太郎・平野邦雄監修、1990年