青山幸覃
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青山 幸覃(あおやま よしひろ、元禄14年(1701年) - 天明3年2月2日(1783年3月4日))は、江戸時代中期の旗本・寄合。青山幸高の六男。青山秘成の養子となる。官位は従五位下、丹後守、備前守。妻は保科正殷の養女(実父:保科正賢)[1]。子に幸喬、幸省らがいる。初名は幸房、幸慎。通称は小三郎、兵庫、民部。
生涯
[編集]元禄14年(1701年)、青山幸高の子として生まれる。宝永4年(1707年)、青山秘成の養子となる。[要出典]享保7年(1722年)7月19日、中奥の小姓となり、享保8年(1723年)12月18日に従五位下丹後守に叙任した後、享保12年(1727年)5月2日に家督を継ぐ。
享保15年(1730年)4月15日に小姓組番頭、享保19年(1734年)11月10日に書院番頭になる。寛保2年(1742年)9月3日、大番頭になる。延享4年(1747年)12月15日に留守居となり、寛延2年(1749年)3月9日に職を辞し、寄合に列する。
天明3年(1783年)2月2日、死去。享年83。息子が早世していたため、家督は孫の幸癸が継いだ。
脚注
[編集]出典
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第729