青木匡
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青木 匡(あおき ただす、1856年(安政3年9月[1]) - 没年不明)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。明治時代前期の政治結社「嚶鳴社」の主要メンバー。森鷗外による史伝小説の第一作「渋江抽斎」の一節にも登場する[2]。
経歴
[編集]兵庫県出身[1]。私学校の教師となり[1]、長野県で新聞社を興す。東京市会議員[3]、東京府会議員、毎日新聞記者[1]、大日本監獄協議会議員、本郷区衛生会幹事となる[1]。
1878年(明治11年)に、青木匡訳の『政体論』で、Individualを「一個人」という言葉で訳した。1884年(明治17年)に文部省の訳ではじめて「個人」となる。日本語の「個人」という言葉は江戸時代にはみられなかった。
1880年頃に作成された私擬憲法「憲法草稿評林」は、機密文書である日本国憲案第三次案を基に、二人の憲法構想が論争的に展開され、他の私擬憲法とは異なる形態を持つが、その二人の著者は不明とされている。上段評論の筆者は小田為綱とみる研究者がほとんどであるが、下段評論の著者は、東京教育大学名誉教授で憲法学者の稲田正次によると、青木匡と推定されている。
1880年(明治13年)に信濃日報の主筆として迎えられ、その翌年に信濃日報が信濃毎日新報を吸収合併し、信濃毎日新聞になる。
1890年の第1回衆議院議員総選挙において兵庫9区から立憲改進党公認で立候補して当選する[4]。1892年の第2回衆議院議員総選挙では次点で落選した[5]。以後の立候補はない。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 日本国政調査会編『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』国政出版室、1977年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。