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青木敬一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
青木 敬一
生誕 1888年6月25日
日本の旗 日本 石川県
死没 (1974-11-07) 1974年11月7日(86歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1909年 - 1939年
最終階級 陸軍少将
除隊後 大日本青少年団幹事
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青木 敬一(あおき けいいち、1888年明治21年)6月25日[1] - 1974年昭和49年)11月7日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。

経歴

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石川県出身[1]陸軍士官学校第21期、陸軍大学校第30期卒業[1]1924年(大正13年)9月時点で台湾軍参謀の任にあり[2]1925年(大正14年)5月、陸軍歩兵少佐に進級し[3]、同年9月時点で歩兵第4連隊附に移った[3]1926年(大正15年)8月には陸軍歩兵学校教官兼同校研究部部員に転じ[4]1928年(昭和3年)8月に陸軍歩兵学校研究部主事兼同校教官に就任した[5]1929年(昭和4年)8月、陸軍歩兵中佐進級と同時に第18師団参謀に着任し[6]1931年(昭和6年)8月に歩兵第41連隊附を経て[7]1933年(昭和8年)3月に第2師団司令部附となり[8]東北帝国大学に配属された[8]

1934年(昭和9年)3月5日陸軍歩兵大佐進級と同時に台湾歩兵第2連隊長(台湾軍・台湾守備隊司令部[9][10])に着任した[11]1936年(昭和11年)3月には第1師団司令部附となり[11]慶応義塾大学に配属され[11]1937年(昭和12年)11月に澎湖島要塞司令官(台湾軍[12][13])に転じた[11]1938年(昭和13年)3月に陸軍少将に進級し[11]、5月には新設された歩兵第136旅団長(第106師団)に着任して日中戦争に出動[1]蕉湖方面から九江に出撃したが[14]、雷鳴鼓劉では全滅寸前の大激戦を繰り広げ[1]南昌作戦では猛攻撃を展開し大なる戦果を収めた[1]1939年(昭和14年)1月23日に待命[11]1月31日に予備役に編入された[1]

予備役編入後は大日本青少年団幹事[15]、同指導者中央錬成所副所長[16]、東京都青少年団副団長、国民総蹶起運動東京地方連絡会議委員などを務めた[17]

脚注

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参考文献

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  • 外山操・森松俊夫 編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。 
  • 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738 
  • 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026 
  • 繁田浅二 編『翼賛団体の現勢』思想国策協会、1942年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1093685