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台湾軍 (日本軍)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
台湾軍
台湾軍司令部
創設 1919年大正8年)8月20日
所属政体 大日本帝国の旗 大日本帝国
所属組織  大日本帝国陸軍
部隊編制単位
所在地 大日本帝国の旗 日本統治下台湾
編成地 台北
最終上級単位 天皇直隷
担当地域 台湾
戦歴 日中戦争-第二次世界大戦
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台湾軍(たいわんぐん、旧字体臺灣軍)は、大日本帝国陸軍の一つ。台湾を管轄した。

概要

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日清戦争後の馬関条約に基づく台湾領有を機に台湾総督府直属におかれた陸軍部が前身である。1919年(大正8年)8月20日に台湾総督文官を任命できるように、指揮系統を総督府から分離して独立の軍となった。同年8月22日、司令部が台北庁大加蚋堡台北城内西門街(旧台湾総督府陸軍部庁舎)で事務を開始し[1]、後に台北市児玉町に置かれた。

日中戦争の勃発に際して隷下の台湾守備隊上海派遣軍の指揮下に編入、中国大陸に派遣され「台湾混成旅団[2]」を経て第48師団に改編された。

その後第二次世界大戦の激化に伴い、1944年(昭和19年)には、5月3日留守第48師団を基幹に第50師団を、6月8日に第8飛行師団を、7月22日独立混成第46旅団を基幹に第66師団を編成し戦力の増強を図り、9月22日には第10方面軍が新設された(第10方面軍司令官は、台湾軍司令官が兼任[3])。台湾軍は、1945年(昭和20年)2月1日、台湾軍管区に改称され[4]、同年8月の敗戦を迎えた。

  • 編成時期:1919年(大正8年)8月20日
  • 最終位置:台北
  • 最終上級部隊:天皇直隷

歴代司令官

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  • 明石元二郎 大将:1919年(大正8年)8月20日 - 1919年(大正8年)10月26日(死去)
  • 柴五郎 大将:1919年(大正8年)11月1日 - 1921年(大正10年)5月4日
  • 福田雅太郎 中将:1921年(大正10年)5月4日 - 1923年(大正12年)8月6日
  • 鈴木荘六 中将:1923年(大正12年)8月6日 - 1924年(大正13年)8月20日
  • 菅野尚一 中将:1924年(大正13年)8月20日 - 1926年(大正15年)7月28日
  • 田中国重 中将:1926年(大正15年)7月28日 - 1928年(昭和3年)8月10日
  • 菱刈隆 中将:1928年(昭和3年)8月10日 - 1930年(昭和5年)6月3日
  • 渡辺錠太郎 中将:1930年(昭和5年)6月3日 - 1931年(昭和6年)8月1日
  • 真崎甚三郎 中将:1931年(昭和6年)8月1日 - 1932年(昭和7年)1月9日
  • 阿部信行 中将:1932年(昭和7年)1月9日 - 1933年(昭和8年)8月1日
  • 松井石根 中将:1933年(昭和8年)8月1日 - 1934年(昭和9年)8月1日
  • 寺内寿一 中将:1934年(昭和9年)8月1日 - 1935年(昭和10年)12月2日
  • 柳川平助 中将:1935年(昭和10年)12月2日 - 1936年(昭和11年)8月1日
  • 畑俊六 中将:1936年(昭和11年)8月1日 - 1937年(昭和12年)8月2日
  • 古荘幹郎 中将:1937年(昭和12年)8月2日 - 1938年(昭和13年)9月8日
  • 児玉友雄 中将:1938年(昭和13年)9月8日 - 1939年(昭和14年)12月1日
  • 牛島実常 中将:1939年(昭和14年)12月1日 - 1940年(昭和15年)12月2日
  • 本間雅晴 中将:1940年(昭和15年)12月2日 - 1941年(昭和16年)11月6日
  • 安藤利吉 中将:1941年(昭和16年)11月6日 -

歴代参謀長

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編制

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1935年(昭和10年)当時

脚注

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  1. ^ 『官報』第2124号、大正8年9月2日。
  2. ^ 第二次上海事変の増援として、1937年(昭和12年)9月7日に台湾守備隊基幹の重藤支隊が編成され上海派遣軍に編入、上海南京の攻略に従事し、翌年(昭和13年)3月1日、守備隊指揮官が波田重一少将に替わると「波田支隊」と改称し、同年11月9日飯田祥二郎少将に替わり「台湾混成旅団」と改称した。
  3. ^ 秦 2005, p. 355, 「第10方面軍司令官」
  4. ^ 秦 2005, p. 360, 「台湾軍司令官」
  5. ^ 『官報』第2575号、昭和10年8月2日。

関連項目

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参考文献

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  • 秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2)東京大学出版会、2005年。