牛島実常
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牛島 実常 | |
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生誕 |
1880年2月11日 福岡県 |
死没 | 1959年12月1日(79歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1904 - 1941 |
最終階級 | 陸軍中将 |
指揮 |
台湾軍司令官 第20師団長 |
戦闘 |
日露戦争 シベリア出兵 日中戦争 第二次世界大戦 |
牛島 実常(うしじま みつね、1880年(明治13年)2月11日[1][2] - 1959年(昭和34年)12月1日[1][2])は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]旧福岡藩士・小学校長の牛島専助の長男として生まれる[1]。1904年10月、陸軍士官学校(16期)を卒業する[1][3]。同11月、工兵少尉に任官し工兵第8大隊付となる[1][3]。鉄道大隊補充中隊付を経て、臨時鉄道大隊付として日露戦争に出征[1]。鉄道連隊付を経て、陸軍砲工学校高等科を卒業し、さらに1913年11月、陸軍大学校(25期)を卒業した[1][2][4]。
鉄道第1連隊中隊長、陸士教官、近衛師団参謀、参謀本部員、関東都督府付(野戦交通部)、関東軍司令部付、浦塩派遣軍野戦交通部参謀、砲工学校教官、工兵第5大隊長、工兵監部員、第11師団参謀長、陸軍工兵学校教育部長、欧州出張などを経て、1932年8月、陸軍少将に進級した[1][4]。工兵学校幹事、工兵監部付、工兵学校長などを歴任し、1936年4月、陸軍中将に昇進した[1][2][4]。
工兵監を経て、第20師団長として日中戦争に出征[1][2][4]。その後、参謀本部付、台湾軍司令官、参謀本部付を経て、1941年1月、予備役に編入された[1][2][4]。その後、翼賛副団長兼帝都翼壮団長、帝都国民義勇隊副本部長を務めた[1]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m 『日本陸海軍総合事典』第2版、26-27頁。
- ^ a b c d e f 『日本陸軍将官辞典』123頁。
- ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』205、207-208頁。
- ^ a b c d e 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』207-208頁。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」185頁。
- ^ 『官報』第6441号「叙任及辞令」1904年12月17日。
- ^ 『官報』第3533号「叙任及辞令」1924年6月4日。
- ^ 『官報』第3819号「叙任及辞令」1939年9月26日。