菅野尚一
表示
菅野 尚一 すがの ひさいち | |
---|---|
少将時代 | |
生誕 |
1871年5月10日 日本、山口県豊浦郡 |
死没 |
1953年6月20日(82歳没) 山口県 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1889 - 1927 |
最終階級 | 陸軍大将 |
菅野 尚一(すがの ひさいち、1871年5月10日(明治4年3月21日) - 1953年(昭和28年)6月20日)は、長府藩出身の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功三級。
経歴
[編集]山口県豊浦郡大字豊浦村(現下関市長府町)にて、父尚喬(旧長府藩士、陸軍主計大尉)の長男として誕生。
陸軍幼年学校を首席で卒業。1891年(明治24年)陸軍士官学校(士官候補生2期)を卒業。
陸軍少尉として日清戦争に従軍し、1899年(明治32年)12月に陸軍大学校(13期)を卒業した。歩兵少佐として日露戦争に出征。日露戦争時では大本営参謀の一人。奉天会戦にて乃木希典の第3軍の参謀も務める。
1917年(大正6年)には石井・ランシング協定締結の際に、石井菊次郎大使付きの首席武官として竹下勇海軍大将(当時中将)と共にアメリカへ随行。竹下勇大将の取り成しで、セオドア・ルーズベルト元大統領と親交を結ぶ。
後、軍務局長、第20師団長、台湾軍司令官、軍事参議官などを歴任。台湾軍司令官時代に、当時としては最年少で大将に就任。
教育総監就任目前で上原勇作らの反長州閥派の妨害に遭い、陸軍を退陣する。代わりに就任したのは武藤信義である。以後は、公の場には一切顔を出さなかった。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]。
1953年(昭和28年)に、故郷山口にて世を去る。
年譜
[編集]- 1889年(明治22年)7月 - 陸軍幼年学校卒業
- 1891年(明治24年)7月 - 陸軍士官学校卒業(2期)
- 1892年(明治25年)3月 - 歩兵少尉任官・歩兵第11連隊付
- 1894年(明治27年)6月 - 日清戦争出征(- 10月)
- 12月 - 歩兵中尉
- 1895年(明治28年)2月 - 陸軍中央幼年学校生徒隊付
- 1898年(明治31年)10月 - 歩兵大尉
- 1899年(明治32年)12月 - 陸軍大学校卒業(13期)・歩兵第11連隊中隊長
- 1900年(明治33年)6月 - 臨時清国派遣隊歩兵大隊付
- 1901年(明治34年)5月 - 清国駐屯守備隊参謀
- 1902年(明治35年)2月 - 参謀本部員(動員班)
- 1903年(明治36年)12月 - 歩兵少佐・歩兵第14連隊付
- 1904年(明治37年)2月 - 歩兵第14連隊補充大隊長・日露戦争出征
- 6月 - 大本営参謀
- 1905年(明治38年)1月 - 第3軍参謀
- 9月 - 満州軍参謀
- 12月 - 参謀本部員
- 1906年(明治39年)3月 - イギリス駐在
- 1907年(明治40年)11月 - 歩兵中佐
- 1908年(明治41年)1月 - 教育総監部参謀
- 1909年(明治42年)8月 - 軍務局課員
- 1910年(明治43年)11月 - 歩兵大佐・軍務局歩兵課長
- 1914年(大正3年)8月 - 陸軍省副官
- 1915年(大正4年)8月 - 陸軍少将・教育総監部付(臨時軍事調査委員長)
- 1917年(大正6年)7月 - 石井特命全権大使随行(米国出張、- 11月)
- 1918年(大正7年)7月 - 歩兵第29旅団長
- 12月 - 軍務局長
- 1919年(大正8年)7月 - 陸軍中将
- 1922年(大正11年)2月 - 第20師団長
- 1924年(大正13年)8月 - 台湾軍司令官
- 1925年(大正14年)8月 - 陸軍大将
- 1926年(大正15年)7月 - 軍事参議官
- 1927年(昭和2年)12月 - 予備役
- 1937年(昭和12年)12月 - 後備役
栄典
[編集]- 位階
- 1892年(明治25年)7月6日 - 正八位[2]
- 1895年(明治28年)2月28日 - 従七位[3]
- 1898年(明治31年)12月22日 - 正七位[4]
- 1907年(明治40年)12月27日 - 正六位[5]
- 1915年(大正4年)9月10日 - 正五位[6]
- 1919年(大正8年)9月10日 - 従四位[7]
- 1922年(大正11年)2月28日 - 正四位[8]
- 1925年(大正14年)3月31日 - 従三位[9]
- 1928年(昭和3年)1月14日 - 正三位[10]
- 勲章等
- 1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章[11]
- 1919年(大正8年)8月25日 - 勲二等瑞宝章[12]
- 1920年(大正9年)11月1日 - 旭日大綬章・大正三年乃至九年戦役従軍記章[13]
- 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[14]
親族
[編集]- 弟 菅野謙吾(陸軍大佐)
- 長男 菅野良(妻の父・渡辺好延陸軍少将)[15]
- 次男 菅野誠(妻の父・広田弘毅第32代内閣総理大臣)[16]
- 四男 菅野弘(妻の父・児玉常雄陸軍大佐)
- 五男 菅野五郎(神戸製鋼所取締役)[17]
- 七男 村上七郎(関西テレビ放送社長)[17]
脚注
[編集]- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」138頁。
- ^ 『官報』第2707号「叙任及辞令」1892年7月7日。
- ^ 『官報』第3498号「叙任及辞令」1895年3月1日。
- ^ 『官報』第4646号「叙任及辞令」1898年12月23日。
- ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
- ^ 『官報』第934号「叙任及辞令」1915年9月11日。
- ^ 『官報』第2132号「叙任及辞令」1919年9月11日。
- ^ 『官報』第2871号「叙任及辞令」1922年3月1日。
- ^ 『官報』第3808号「叙任及辞令」1925年5月5日。
- ^ 『官報』第313号「叙任及辞令」1928年1月17日。
- ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
- ^ 『官報』第2118号「叙任及辞令」1919年8月26日。
- ^ 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
- ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
- ^ 『人事興信録 第14版 上』(人事興信所、1943年)ス20頁
- ^ 菅野尚一 (第8版 [昭和3(1928)年7月 の情報)] 人事興信録データベース
- ^ a b 人事興信所 1995, む29頁.
参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 人事興信所 編『人事興信録 第38版 下』人事興信所、1995年 。