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和知鷹二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
和知わち 鷹二たかじ
生誕 1893年明治26年)2月1日
日本の旗 日本 広島県
死没 1978年昭和53年)10月30日
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1914年 - 1945年
最終階級 陸軍中将
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和知 鷹二(わち たかじ、1893年明治26年)2月1日 - 1978年昭和53年)10月30日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

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広島県出身。旧中津藩士、陸軍中佐・和知蓁一郎の二男として生まれる。広島高等師範学校附属中学校広島陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1914年(大正3年)5月、陸軍士官学校(26期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第3連隊付となる。1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業した。

1923年(大正12年)8月、歩兵第3連隊中隊長となり、参謀本部付勤務、参謀本部員(支那課)、参謀本部付(支那研究員・南支駐在)、参謀本部員、第6師団司令部付(済南特務機関)、済南駐在武官などを歴任し、1929年(昭和4年)3月、歩兵少佐に昇進。同年8月、歩兵第63連隊大隊長に就任し、参謀本部員、関東軍参謀広東駐在武官などを歴任。

1933年(昭和8年)8月、歩兵中佐に進級。1934年(昭和9年)12月、参謀本部員となり、支那駐屯軍司令部付(太原機関長)を経て、1936年(昭和11年)8月、支那駐屯軍参謀となり日中戦争に出征。1937年(昭和12年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵第44連隊長に発令された。

1938年3月、台湾軍司令部付(特務工作)、参謀本部付(特務工作)。日本陸軍は日中戦争の戦局打開のため、蔣介石のライバルと目される要人たちの懐柔を図り、大本営直轄の土肥原機関の指揮下に、北京では大迫通貞大佐が「竹工作」を、福建省に対しては台湾を拠点に山本募大佐が「菊工作」を、重慶に対しては参謀本部の影佐禎昭大佐が「梅工作」を、上海では和知が「蘭工作」を行った[1]。その後、第21軍司令部付兼中支那派遣軍司令部付、支那派遣軍総司令部付を経て、1940年(昭和15年)3月、陸軍少将に進級。同年11月、参謀本部付となり、台湾軍参謀長、兼台湾軍研究部長として太平洋戦争を迎えた。

1942年(昭和17年)2月、第14軍参謀長に就任し、フィリピンバターン攻略に参加し、兼比島軍政監となり、1943年(昭和18年)6月、陸軍中将に進んだ。1944年(昭和19年)3月、南方軍総参謀副長に就任し、さらに第35軍参謀長へ転出しレイテ島の戦いに参戦したが敗退。次いで南方軍総司令部付となり、南方軍総参謀副長兼南方軍交通隊司令官を経て、中国憲兵隊司令官として終戦を迎えた。

1945年(昭和20年)12月、予備役に編入。1946年(昭和21年)1月、戦犯容疑(橘丸事件)で逮捕され巣鴨拘置所に拘留。1948年(昭和23年)4月13日、重労働6年の判決を受け、1950年(昭和25年)8月17日付けで仮釈放された[2]。この間に公職追放となった[3]

脚注

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  1. ^ 『謀略の昭和裏面史 特務機関&右翼人脈と戦後の未解決事件!』別冊宝島Real、宝島社、2006年、100-101頁 
  2. ^ 「和知元中将ら仮出所」『日本経済新聞』昭和25年8月8日3面
  3. ^ 公職追放の該当事項は「台湾南方協会副会長、桜会役員」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、708頁。NDLJP:1276156 

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

外部リンク

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