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樋口敬七郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
樋口 敬七郎
生誕 1893年11月22日
日本の旗 日本 佐賀県唐津市
死没 (1971-12-04) 1971年12月4日(78歳没)
所属組織 日本陸軍
軍歴 1915 - 1945
最終階級 陸軍中将
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樋口 敬七郎(ひぐち けいしちろう、1893年(明治26年)11月22日 - 1971年(昭和46年)12月4日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

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佐賀県唐津市出身。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業した。

1931年(昭和6年)8月、陸士教官から関東軍独立守備隊参謀に転出、翌月、満州事変が勃発した。1934年(昭和9年)8月、陸大教官に発令された。1938年(昭和13年)7月、歩兵大佐に昇進。1939年(昭和14年)11月、第3師団参謀長に就任し日中戦争に出征。南支那方面軍参謀副長を経て、第23軍参謀副長となり、1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に進級し太平洋戦争を迎えた。

開戦後、香港の戦いに参加。1942年(昭和17年)2月、台湾軍参謀長となり、次いで久留米第一陸軍予備士官学校長に発令された。1945年(昭和20年)3月、陸軍中将に進み、翌月、第156師団長に着任し、宮崎県本庄で本土決戦に備える中で終戦を迎えた。

戦後、戦犯容疑により逮捕され香港に連行されたが、1947年(昭和22年)6月に不起訴となり釈放された。同年11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]。その後、故郷の唐津で生活し、唐津市選挙管理委員会委員長も務めた。

親族

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著書

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  • 『戦国武将の俤』琢磨社、1931年。
  • 『日本古来名将の戦略及統帥の観察』陸軍大学校将校集会所、1941年。

脚注

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  1. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」21頁。

参考文献

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  • 樋口大成『師団長だった父と私 - ある若者が生きた昭和のドラマ』学習研究社、2002年。ISBN 4054016995
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。