青木正教
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 明暦元年(1655年)[1] |
死没 | 享保10年12月21日(1726年1月23日) |
別名 | 甚五兵衛(通称) |
戒名 | 日題 |
墓所 | 市谷の蓮秀寺 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川綱豊、家継、吉宗 |
藩 | 甲府藩 |
氏族 | 平岡氏、青木氏 |
父母 |
平岡道賢、神谷政成娘 青木正寛、小長谷重次娘 |
妻 | 内山永貞娘 |
子 | 昌邦、教豊 |
青木 正教(あおき まさのり)は、江戸時代前期から中期にかけての甲府藩甲府徳川家家臣、江戸幕府旗本。武田氏族大井氏系青木氏の当主。通称は甚五兵衛。旗本時代の家禄は蔵米290俵。青木長国の実の祖父で家系上の曾祖父にあたり、勝海舟と幕末に大奥御年寄となる瀧山の共通する先祖の1人である。
生涯
[編集]平岡道賢と神谷政成の娘との三男として誕生。甲府藩小姓組組頭となる青木正寛の養子となる。養父の隠居で青木家を相続し、徳川綱豊に仕えて甲府藩の小姓組士となり、主君の綱豊が徳川綱吉の養子となると、宝永元年12月12日(1705年1月7日)に幕府の焼火間番士に転じて蔵米290俵を賜り、宝永7年(1708年)に大番士となる。
正徳5年(1715年)に大番士を辞して小普請となり、享保10年12月21日(1726年1月23日)に死去。享年71。法名は日題。墓所は市谷の蓮秀寺。家督と家禄は養母の一族で養子の教豊が相続し、実子の昌邦は教豊の養子となる。
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『新訂寛政重修諸家譜 第3』(続群書類従完成会、編集顧問、高柳光寿、岡山泰四、斎木一馬、1964年)
- 寛政重修諸家譜 巻百五十二