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静間知次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

静間 知次(しずま ともじ、旧字体靜間知次󠄁1876年明治9年)5月5日[1][2] - 1926年大正15年)12月7 日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・高柳。

経歴

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山口県出身[1][2][3]。高柳致知の二男として生れ、静間大輔の養子となる[1]陸軍幼年学校を経て、1896年(明治29年)5月、陸軍士官学校(7期)を卒業し[2]、翌年1月、工兵少尉に任官し工兵第6大隊付となる[1][3]。1899年(明治32年)12月、陸軍砲工学校高等科(7期)を優等で卒業[1][2][3]。1900年(明治33年)3月から1903年(明治36年)までフランスに留学した[1]。1904年(明治37年)5月、大連野戦鉄道提理部員に発令され、同年7月から1905年(明治38年)12月まで日露戦争に出征した[1][4]

1907年(明治40年)11月、工兵少佐に昇進し砲工学校教官に就任[1]。1910年(明治43年)12月、イタリア大使館イタリア語版武官となり、1912年(明治45年)5月、工兵中佐に進んだ[1]。1914年(大正3年)3月、砲工学校教官に転じて帰国[1]。1915年(大正4年)5月、第一次世界大戦欧州戦線に従軍した[1][4]。1916年(大正5年)8月、工兵大佐に昇進し陸軍技術審査部付となる[1][3]。技術審査部審査官を経て、1918年(大正7年)11月、浦塩派遣軍司令部付に発令されシベリア出兵に出征[1][2][3]。1919年(大正8年)4月、第1鉄道連隊長に転じ、1920年(大正9年)7月、参謀本部付となり、同年8月、陸軍少将に進級[1][2][3]。同年9月、国際連盟空軍代表に就任した[1][2][3][4]

1923年(大正12年)12月、参謀本部付となり、第17師団司令部付を経て、1924年(大正13年)12月、砲工学校長に就任[1][2][3]。1925年(大正14年)5月、陸軍中将に進級し、1926年(大正15年)3月、工兵監に就任[1][2][3]。同年8月、熊本工兵第6大隊の視察のため出張中に発病し、熊本衛戍病院(現国立病院機構熊本医療センター)に入院し療養していたが同年12月に死去した[5]。墓所は青山霊園(1イ1-29)。

栄典

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『日本陸海軍総合事典』第2版、78-79頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j 『日本陸軍将官辞典』365頁。
  3. ^ a b c d e f g h i 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』124-125頁。
  4. ^ a b c 『朝日日本歴史人物事典』784頁。
  5. ^ 『大正過去帳』353頁。
  6. ^ 『官報』第2434号「叙任及辞令」1920年9月11日。

参考文献

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  • 秦郁彦 編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年。
  • 『大正過去帳 物故人名辞典』東京美術、1973年。