須恵村
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すえむら 須恵村 | |
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須恵村役場(2024年6月) | |
廃止日 | 2003年4月1日 |
廃止理由 |
新設合併 上村、免田町、岡原村、須恵村、深田村 → あさぎり町 |
現在の自治体 | あさぎり町 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 九州地方 |
都道府県 | 熊本県 |
郡 | 球磨郡 |
市町村コード | 43508-2 |
面積 | 17.98 km2 |
総人口 |
1,471人 (国勢調査、2000年) |
隣接自治体 | 免田町、深田村、相良村、多良木町 |
須恵村役場 | |
所在地 |
〒868-0451 熊本県球磨郡須恵村132番地 |
座標 | 北緯32度16分00秒 東経130度54分01秒 / 北緯32.26658度 東経130.90036度座標: 北緯32度16分00秒 東経130度54分01秒 / 北緯32.26658度 東経130.90036度 |
ウィキプロジェクト |
須恵村(すえむら)は、かつて熊本県の南東部、球磨郡にあった村。日本最初の「人類学者による農村調査」が行なわれた村としても知られる[1]。
2003年4月1日、同郡内の上村、免田町、岡原村、深田村と新設合併し、あさぎり町となった。現在はあさぎり町須恵地区となっている。
小ねぎ生産が活発であった。
地理
[編集]熊本県の南東部、球磨郡の中央に位置した。北部は面積の7割を占める山地と一部が畑地帯となっている。南部は水田地帯となっている。
歴史
[編集]- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により須恵村が発足。
- 1935年 - 1936年 - アメリカ合衆国の文化人類学者ジョン・エンブリー (1908年 - 1950年, John Embree) によって部落社会の構造が実地調査され、「Suye Mura: A Japanese Village」(Chicago,1939)によってまとめられる。日本文化理解の教科書、「菊と刀 (1944)」の参考文献として挙げられる。エンブリーの妻エラ(日本育ちで、のちに再婚してウィズウェル姓[2])により『須恵村の女たち』も執筆された[3]。須恵村が選ばれたのは柳田国男の助言による[2]。
- 1971年 - 『変貌する須恵村 社会文化変化の基礎的研究』(牛島盛光、ミネルヴァ書房)刊行。
- 1988年 - 上述のエンブリー調査のその後を追跡調査した『写真民族誌 須恵村 1935-1985』 (牛島盛光、日本経済評論社)刊行。
- 2003年(平成15年)4月1日 - 上村、免田町、岡原村、深田村と合併し、あさぎり町となり消滅。
行政
[編集]平成の大合併
[編集]平成の大合併で深田村、免田町、岡原村、上村との合併計画は、当時所有林などの問題と高度経済成長も助けていたという理由もあったため、地方交付税と過疎対策事業の恩恵のためにそれぞれの村々は合併を急がなくてもやっていけたため計画はいったんは流れたが、2003年(平成15年)4月1日、上にあげた5町村が対等合併し、あさぎり町となることになった。
教育
[編集]産業
[編集]かつては石炭産業が盛んであった。1939年(昭和14年)4月28日には、亀山炭鉱でガス爆発があり、作業員10人が死亡する事故も発生している[4]。
交通
[編集]道路
[編集]出身有名人
[編集]- 橋口侑佳(アナウンサー)
脚注
[編集]- ^ ジョン・F. エンブリー John F. Embree 20世紀西洋人名事典
- ^ a b 桑山敬己「第2次世界大戦前後のアメリカ人研究者による日本村落の研究」(PDF)『民博通信』第139号、2012年12月、10-11頁。
- ^ 英語版Wikipedia"John Embree"
- ^ 日外アソシエーツ編集部 編『日本災害史事典 1868-2009』日外アソシエーツ、2010年9月27日、54頁。ISBN 9784816922749。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 昭和時代の須恵村熊日写真ライブラリー
- 土屋貞蔵「村落の来往住者について : 須恵村の場合」『滋賀大学学芸学部紀要人文科学・社会科学・教育科学』第13巻、滋賀大学教育学部、1963年、55-76頁、ISSN 04886275、NAID 110004717494。
- 前川亨「須恵村訪問記」『専修大学法学研究所所報』第49巻、専修大学法学研究所、2014年、19-44頁、doi:10.34360/00003960、ISSN 0913-7165、NAID 120006784768。
- 新・全訳 須恵村-日本の村: ジョン・F・エンブリー著、田中一彦 訳