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餅原平二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

餅原 平二(もちはら へいじ、1852年1月3日嘉永4年12月12日) - 1920年2月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将男爵

経歴

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薩摩藩士餅原平右衛門の二男。明治4年(1871年)10月、兵部省に出仕。明治5年(1872年)3月、水路局測量生となり、以後、測量業務に従事。1874年(明治7年)9月、海軍少尉補に任官し、1878年(明治11年)12月、海軍少尉となる。

1885年(明治18年)5月、「浪速」回航委員となりイギリスに出張。「浪速」水雷長等を経て、1889年(明治22年)6月、海軍少佐に昇進。1892年(明治25年)11月、海軍兵学校水雷術教官となり、佐世保水雷隊攻撃部司令を経て、1894年(明治27年)7月、常備艦隊水雷艇隊司令に発令され、日清戦争に出征。常備艦隊1水雷艇隊司令、佐世保水雷隊攻撃部司令兼第1水雷隊司令、「赤城」「摩耶」の各艦長、横須賀水雷団長心得などを経て、1896年(明治29年)10月、海軍大佐に昇進し横須賀水雷団長に就任。

1897年(明治30年)12月、海軍水雷術練習所長に就任。兼横須賀水雷団長、佐世保水雷団長、横須賀水雷団長を経て、1903年(明治36年)7月、海軍少将に進み舞鶴港務部長兼舞鶴予備艦部長となった。

1904年(明治37年)1月、鎮海防備隊司令官となり日露戦争を迎えた。翌年12月、大湊要港部司令官に就任。1907年(明治40年)3月、海軍中将となり海軍将官会議議員に就任。同年5月8日に待命となる[1]。同年9月21日、男爵の爵位を授爵し華族となり、同年10月31日、予備役に編入された[2]1914年(大正3年)3月1日に後備役となる[3]1916年(大正5年)12月12日に退役した[4]。墓所は雑司ヶ谷霊園

栄典・授章・授賞

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位階
勲章等

脚注

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  1. ^ 『官報』第7155号、明治40年5月9日。
  2. ^ 『官報』第7304号、明治40年11月1日。
  3. ^ 『官報』第476号、大正3年3月3日。
  4. ^ 『官報』第1311号、大正5年12月14日。
  5. ^ 『官報』第2406号「叙任及辞令」1891年7月8日。
  6. ^ 『官報』第4046号「叙任及辞令」1896年12月22日。
  7. ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
  8. ^ 『官報』第5937号「叙任及辞令」1903年4月21日。
  9. ^ 『官報』第7157号「叙任及辞令」1907年5月11日。
  10. ^ 『官報』第7321号「叙任及辞令」1907年11月21日。
  11. ^ 『官報』第1301号「叙任及辞令」1916年12月2日。
  12. ^ 『官報』第3430号「叙任及辞令」1894年12月3日。
  13. ^ 『官報』第3676号「叙任及辞令」1895年9月28日。
  14. ^ 『官報』第3838号・付録「辞令」1896年4月18日。
  15. ^ 『官報』第6271号「叙任及辞令」1904年5月28日。
  16. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
  17. ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。

参考文献

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  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
  • 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第9巻、発売:第一法規出版、1995年。
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
餅原(平二)家初代
1907年 - 1920年
次代
餅原正