餅原平二
餅原 平二(もちはら へいじ、1852年1月3日(嘉永4年12月12日) - 1920年2月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。男爵。
経歴
[編集]薩摩藩士餅原平右衛門の二男。明治4年(1871年)10月、兵部省に出仕。明治5年(1872年)3月、水路局測量生となり、以後、測量業務に従事。1874年(明治7年)9月、海軍少尉補に任官し、1878年(明治11年)12月、海軍少尉となる。
1885年(明治18年)5月、「浪速」回航委員となりイギリスに出張。「浪速」水雷長等を経て、1889年(明治22年)6月、海軍少佐に昇進。1892年(明治25年)11月、海軍兵学校水雷術教官となり、佐世保水雷隊攻撃部司令を経て、1894年(明治27年)7月、常備艦隊水雷艇隊司令に発令され、日清戦争に出征。常備艦隊1水雷艇隊司令、佐世保水雷隊攻撃部司令兼第1水雷隊司令、「赤城」「摩耶」の各艦長、横須賀水雷団長心得などを経て、1896年(明治29年)10月、海軍大佐に昇進し横須賀水雷団長に就任。
1897年(明治30年)12月、海軍水雷術練習所長に就任。兼横須賀水雷団長、佐世保水雷団長、横須賀水雷団長を経て、1903年(明治36年)7月、海軍少将に進み舞鶴港務部長兼舞鶴予備艦部長となった。
1904年(明治37年)1月、鎮海防備隊司令官となり日露戦争を迎えた。翌年12月、大湊要港部司令官に就任。1907年(明治40年)3月、海軍中将となり海軍将官会議議員に就任。同年5月8日に待命となる[1]。同年9月21日、男爵の爵位を授爵し華族となり、同年10月31日、予備役に編入された[2]。1914年(大正3年)3月1日に後備役となる[3]。1916年(大正5年)12月12日に退役した[4]。墓所は雑司ヶ谷霊園。
栄典・授章・授賞
[編集]- 位階
- 1891年(明治24年)7月6日 - 従六位[5]
- 1896年(明治29年)12月21日 - 正六位[6]
- 1898年(明治31年)3月8日 - 従五位[7]
- 1903年(明治36年)4月20日 - 正五位[8]
- 1907年(明治40年)
- 1916年(大正5年)12月1日 - 従三位[11]
- 勲章等
- 1894年(明治27年)11月24日 - 勲五等瑞宝章[12]
- 1895年(明治28年)
- 1904年(明治37年)5月27日 - 勲三等瑞宝章[15]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功三級金鵄勲章、勲二等旭日重光章、明治三十七八年従軍記章[16]
- 1907年(明治40年)9月21日 - 男爵 [17]
脚注
[編集]- ^ 『官報』第7155号、明治40年5月9日。
- ^ 『官報』第7304号、明治40年11月1日。
- ^ 『官報』第476号、大正3年3月3日。
- ^ 『官報』第1311号、大正5年12月14日。
- ^ 『官報』第2406号「叙任及辞令」1891年7月8日。
- ^ 『官報』第4046号「叙任及辞令」1896年12月22日。
- ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
- ^ 『官報』第5937号「叙任及辞令」1903年4月21日。
- ^ 『官報』第7157号「叙任及辞令」1907年5月11日。
- ^ 『官報』第7321号「叙任及辞令」1907年11月21日。
- ^ 『官報』第1301号「叙任及辞令」1916年12月2日。
- ^ 『官報』第3430号「叙任及辞令」1894年12月3日。
- ^ 『官報』第3676号「叙任及辞令」1895年9月28日。
- ^ 『官報』第3838号・付録「辞令」1896年4月18日。
- ^ 『官報』第6271号「叙任及辞令」1904年5月28日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
- ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
参考文献
[編集]- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第9巻、発売:第一法規出版、1995年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 餅原(平二)家初代 1907年 - 1920年 |
次代 餅原正 |