コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

楠美恩三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
館山漸之進から転送)
楠美恩三郎(1910年頃)

楠美 恩三郎(くすみ おんざぶろう、1868年4月17日慶応4年3月25日) - 1927年昭和2年)10月8日)は、日本の作曲家教育者東京音楽学校(現在の東京芸術大学教授青森県弘前市出身。

弘前藩士、楠美晩翠の三男として生まれる。1889年(明治22年)、東京音楽学校師範部を卒業。1902年(明治35年)、東京音楽学校助教授、1910年(明治43年)〜1917年大正6年)まで同教授として活躍し、日本の音楽教育に貢献した。

また、島崎赤太郎岡野貞一南能衛上真行小山作之助らとともに、文部省編『尋常小学唱歌』の作曲委員の一人として参加し、『尋常小学読本唱歌』の編纂にもたずさわった。

数多くの校歌の作曲を手がけた事でも有名。

来歴

[編集]

慶應4年(1868年)3月25日に代々平曲の伝承を行っていた楠美家に産まれた。幼少期を過ごした弘前では東奥義塾が外国人講師を雇用していたため、他の地域と比べ比較的早くから洋学が根付いていた。また恩三郎は東奥義塾初等科に在籍していたため讃美歌オルガンは身近なものであった。明治17年に青森師範学校弘前分校初等科を卒業。

明治20年に文部省音楽取調掛に入学し明治22年、東京音楽学校師範部を卒業し香川県の尋常師範学校の助教授として着任する。明治23年には尋常師範学校尋常中学校高等女学校音楽家教員免許状を受領する。

そして明治26年には京都府尋常師範学校に勤務し始める。京都では同志社の影響から他の地域と比べ比較的早くから唱歌教育が行われていた。京都師範学校時代では師範学校で教鞭を握るほか、市歌「京都」の歌唱講習会での指導や唱歌集、「学校必用唱歌集」の編纂や「京都歴史唱歌」「京都地理唱歌」の作曲をおこなった。

明治35年には東京音楽学校助教授となる。その後明治40年に唱歌編纂員、明治41年に楽語調査員を兼任し、明治42年に東京音楽学校教授となり大正6年に退官となった。その後は法学調査やオルガン講師、教員養成所などで嘱託を受けるが大正15年には全て辞職し昭和2年にこの世を去った[1]

代表的な作品

[編集]

童謡・唱歌

[編集]
  • 『お星様』(作詞:石原和三郎
  • 『木の実拾い』(作詞:旗野十一郎 [2])
  • 『手毬と紙鳶』(作詞:吉丸一昌
  • 『同窓会』(作詞:加藤里路
  • 『朝日の御旗』(作詞:中村秋香
  • 『春のゆくころ』
  • 『暑さは日々に』
  • 『夏の休み』

校歌・自治歌

[編集]

など

著作

[編集]

家族

[編集]
  • 先祖に津軽藩平曲を興した楠美則徳[5]
  • 父の楠美晩翠は則徳の曾孫で、麻岡検校門下の楠美太素の長男。
  • 叔父に平曲研究者で東京音楽学校邦楽調査掛嘱託の館山漸之進(1845‐1916)。晩翠の弟で、館山源右衛門の養子。父や兄から平曲を学び、当道座廃止後、平曲衰退を憂いて『平家音楽史』を刊行するなど保存活動に尽力したほか、青森の郡長・県会議員も務めた[5]。漸之進の四男の館山甲午(1894-1989)は平家琵琶無形文化財保持者[6]
  • 兄の楠美冬次郎(1863-1934)は明治から昭和にかけて活躍した果樹園芸家[5]

脚注

[編集]
  1. ^ 国立歴史民俗博物館、北原かな子「尋常小学唱歌楽曲委員楠美恩三郎」『国立歴史民俗博物館研究報告236』弘文社、2022年10月31日、9-24頁。 
  2. ^ 日本人名大辞典+Plus, デジタル版. “旗野十一郎とは”. コトバンク. 2023年8月1日閲覧。
  3. ^ 青山学院 『青山学院九十年史』 1965年、338-339頁
  4. ^ 本著の緒言P5.「本書ニアル歌詞ハ、吉丸一昌君、コレヲ担当セリ。」と記述有り。またP22.の62の練習曲でドイツの歌曲「ローレライ」を紹介している。(訳詞:吉丸一昌)
  5. ^ a b c 館山漸之進コトバンク
  6. ^ 館山甲午コトバンク

外部リンク

[編集]

ウィキメディア・コモンズには、楠美恩三郎に関するカテゴリがあります。