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香西少輔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

香西 少輔(こうざい しょうすけ)は、江戸末期の兵法家、軍術家。香西少輔成美。筑前黒田藩に仕える。祖先は香西成資長崎海軍伝習所に学び、藩の軍術方[1]を務める。慶應4年(1868年)閏4月、玄界島へ流罪[1]

長崎海軍伝習所に学んだことは塾頭を務めた勝海舟の著書『海軍歴史』に福岡藩伝習生として記述されている[2]。福岡側においては、安政4年閏5月24日に長崎海軍伝習所への香西少輔の派遣を決定している[3]

その当時、納戸組支配の軍学者330石[4]。慶應4年(1868年)4月4日、筑前藩は戊辰戦役に勤王側で出兵していたにもかかわらず太政官から「乙丑の獄」(勤王派弾圧事件)の責任者を処分せよとの指示があり、浦上数馬(蕉雨)、野村東馬、久野将監ら重役が切腹を申しつけられる中、香西少輔らは流罪となった[5]

出典

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  1. ^ a b 高田茂廣校註『見聞略記 幕末筑前浦上人の記録』(海鳥社、1989年(平成元年)11月.p402)
  2. ^ 勝海舟全集刊行会代表江藤淳『勝海舟全集8 海軍歴史Ⅰ』(講談社、1973年(昭和48年)8月.p164
  3. ^ 梶原良則「安政期福岡藩における西洋軍法の導入と抵抗」p11 https://cir.nii.ac.jp/crid/1050282677519933952
  4. ^ 成松正隆『加藤司書の周辺~筑前藩・乙丑の獄始末』(西日本新聞社、1997年(平成9年)4月.p360)
  5. ^ 成松正隆『加藤司書の周辺~筑前藩・乙丑の獄始末』(西日本新聞社、1997年(平成9年)4月.p359-361)