香西成資
香西 成資(こうざい しげすけ、寛永9年〈1632年〉1月25日[1] – 享保6年〈1721年〉閏7月22日)[1][2]は、江戸時代前期から中期にかけての兵法家、歴史家[3]。甲州流軍学を学び筑前黒田家に仕える[4]。また、四国(南海道)の中世史を記した『南海治乱記』『南海通記』[5]の著作でも知られる。
生涯
[編集]寛永9年(1632年)、讃岐国香川郡佐料邑(現在の香川県高松市鬼無町佐料)[4]にて植松吉兵衛時陰(時信)の子として誕生。幼名は太郎八、のちに藤助。長じて武兵衛(『香西記』では庄左衛門)興資と名乗った。筑前福岡に移住してから祖先である豪族・香西元綱(香西氏)[4]の家名を再興し、香西庄兵衛成資と名乗る(のちに庄左衛門)[6]。なお、父の墓は香川県高松市鬼無町佐料に現存している[7]。
慶安2年(1649年)より[8]兵学者小早川能久、さらに江戸に上り能久の師・小幡景憲に甲州流軍学を学ぶ[2][1]。万治2年(1659年)、28歳で免許を得て一時讃岐に帰り[4]、寛文年中に32歳で筑前へ移る[6]。
天和2年(1682年)より筑前黒田家に兵法指南として仕える。福岡城南の地平尾山下に7200坪(約23,760平方メートル)の土地を与えられ、演武堂・兵祖廟を建て門下生を教えた(のちに子の香西資始が隣接地8600坪を得て全体を「軍神山」と位置づけた)。官職を辞した後は本立軒常山と号する[9]。
また著書も多く、甲州流軍学を記した『甲越戦争記』『甲源武鑑単騎』『武田兵術文稿』や[10]、2人の師に学んだことを振り返った『小幡小早川両師伝』(享保2年〈1717年〉)[11]、出身地讃岐を含む四国(南海道)の中世史を記した『南海治乱記』(寛文3年〈1663年〉)『南海通記』(享保3年〈1718年〉)がある[12]。
享保6年(1721年)、福岡城南の薬院の自宅で90歳で没する[13]。
著書
[編集]- 『甲越戦争記』[15]
- 『甲源武鑑単騎』
- 『甲源武鑑陣法』[15]
- 『武田兵法全書』[15]
- 『陣説精要』[15]
- 『三品正傳』[15]
- 『武田兵術文稿』
- 『兵統正傳』[15]
- 『小幡小早川両師伝』
- 『南海治乱記』
- 『南海通記』
出典
[編集]- ^ a b c 伊東尾四郎「香西成資事蹟」『筑紫史談』第89集(筑紫史談会、1945年(昭和20年)1月.p10)
- ^ a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus「香西成資」の解説
- ^ 四国新聞社編『讃岐人物風景6 俊英の系譜』(大和学芸図書株式会社、1981年(昭和56年).p200
- ^ a b c d 四国新聞社編『讃岐人物風景6 俊英の系譜』(大和学芸図書株式会社、1981年(昭和56年).p203
- ^ 香西成資原著・伊井春樹訳『南海治乱記(上)』(教育社新書、1981年(昭和56年).pp22-23
- ^ a b 伊東尾四郎「香西成資事蹟」『筑紫史談』第89集(筑紫史談会、1945年(昭和20年)1月.p3)
- ^ 香西吉兵衛の墓(香西成資の父)https://www.google.com/maps/place/%E9%A6%99%E8%A5%BF%E5%90%89%E5%85%B5%E8%A1%9B%E3%81%AE%E5%A2%93(%E9%A6%99%E8%A5%BF%E6%88%90%E8%B3%87%E3%81%AE%E7%88%B6)/@34.3306094,133.9958182,15z/data=!4m5!3m4!1s0x0:0xfa8b77c4f3183269!8m2!3d34.3306103!4d133.9958122?shorturl=1
- ^ 木部二郎「『本朝武芸小伝』に引用された『兵術文稿』について(1)」https://note.com/kibejiro/n/n88da3cda2ecd[出典無効]
- ^ 四国新聞社編『讃岐人物風景6 俊英の系譜』(大和学芸図書株式会社、1981年(昭和56年).p203
- ^ 香西成資原著・伊井春樹訳『南海治乱記(上)』(教育社新書、1981年(昭和56年).p22
- ^ 『小幡小早川両師伝』岩国徴古館収蔵吉川家寄贈図書https://jmapps.ne.jp/iwakunichokokan/det.html?data_id=19798
- ^ 香西成資原著・伊井春樹訳『南海治乱記(上)』(教育社新書、1981年(昭和56年).pp22-23
- ^ 四国新聞社編『讃岐人物風景6 俊英の系譜』(大和学芸図書株式会社、1981年(昭和56年).p203-4
- ^ 福岡地方史研究会編『福岡藩分限帳修正』(海鳥社、1999年(平成11年)6月.p536
- ^ a b c d e f 伊東尾四郎「香西成資事蹟」『筑紫史談』第89集(筑紫史談会、1945年(昭和20年)1月.p8)