小早川能久
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 寛文6年4月17日[1](1666年5月20日) |
改名 | 小早川元規[1]→小早川能久 |
別名 |
小早川式部 通称:大学[1]、式部[1] |
戒名 | 浄光院日峯全照[1] |
墓所 | 玄済寺(山口県山口市吉敷佐畑) |
主君 | 毛利秀就→徳川頼房→松平頼重 |
藩 | 長州藩→水戸藩→高松藩 |
氏族 | 桓武平氏良文流土肥氏庶流小早川氏 |
父母 |
父:小早川秀包[1] 母:桂姫(大友宗麟の娘) |
兄弟 |
毛利元鎮[1]、女(井原元以室)[1]、 女(毛利元景室)[1]、毛利元貞[1]、 女(桂繁政室、井原元栄室)[1]、 於佐手(吉田重成室)[1]、能久、 女(臼杵統尚娘、益田景祥室)[1] |
妻 | 不詳 |
子 | 喜太郎(早世)[1]、女(戸祭主水室)[1] |
小早川 能久(こばやかわ よしひさ)は、江戸時代前期の武士。小早川秀包の三男。通称は大学、式部。小早川式部の名で兵法家としても名を残す。
生涯
[編集]小早川秀包の三男として生まれる。毛利秀就に仕えたが、故あって牢人となる。江戸滞在中に水戸藩主・徳川頼房に召し出され、松平頼重の附家老となった。
また、能久は兵法家でもあり、小幡景憲に甲州流軍学を学んで『翁物語』(成立は1652年以前)を著した。能久の流れは、筑前福岡藩に伝わった。
寛文6年(1666年)4月17日に死去[1]。子の喜太郎が早世したため嗣子がなく、能久の死により小早川家は断絶した[1]。
系譜
[編集]- 父:小早川秀包(1567-1601)
- 母:桂姫(1570-1648) - 大友義鎮(大友宗麟)の娘。
- 正室:不詳
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 時山弥八編『国立国会図書館デジタルコレクション 稿本もりのしげり』1916年。 NCID BN04718592 。
- 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。国立国会図書館デジタルコレクション