井原元以
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 寛永19年5月27日[1](1642年6月24日) |
改名 | 元茂(初名)→元智→元以 |
別名 | 通称:小六、大学、四郎右衛門 |
官位 | 加賀守、弾正忠[1] |
主君 | 毛利輝元 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 井原氏 |
父母 | 父:井原元良[1]、母:末兼隆忠娘[1] |
兄弟 |
元尚、元以、元歳、桂元相室、秋山元信室、乃美元興室、 市川元直室(後市川景好後国司元蔵室) |
妻 | 正室:小早川秀包娘[1] |
子 | 就行、就久、益田就固正室[1] |
井原 元以(いばら もともち)は、江戸時代初期の長州藩士、毛利家の重臣。
出自
[編集]安芸国の国人であった井原氏は、元以の曾祖父・井原元師が毛利弘元の娘を娶り毛利家と関係を深め、のちに従属した。
生涯
[編集]井原元良の次男として安芸国に生まれ、幼年の頃から毛利輝元の側近として仕える。初め元茂と名乗り、のち元智、元以に改める[1]。
関ヶ原の戦い後、毛利氏の防長移封に従い、元以は周防国熊毛三輪(2102石)に給領地を貰い別家を建て、永代家老に次ぐ寄組に列する。慶長7年(1602年)父・元良の死去により、元以は家名[2]を継ぎ、毛利輝元に近侍し加判役(家老)に就任し、輝元の寵臣の一人として藩政に重きをなした。慶長10年(1605年)3月に萩城築城の際、五郎太石事件が起こった。この時、加判役として、対立する事件の当事者同士である益田元祥、景祥父子と天野元信、熊谷元直との間に仲裁に入っている。
寛永19年(1642年)5月27日死去。家督は嫡男の就行が継いだ。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。国立国会図書館デジタルコレクション
- 『萩藩閥閲録』巻28「井原大学」