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五郎太石事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

五郎太石事件(ごろたいしじけん)とは、江戸時代初期に発生した毛利氏の家中騒動。熊谷党誅罰事件とも称される[1]

萩城普請に必要な五郎太石(石垣の裏や隙間を埋める小石や砂利)が盗まれたことを発端として、重臣の熊谷元直らが毛利輝元に粛清された事件である[2]

経過[編集]

慶長5年(1600年)10月の防長減封後、毛利輝元江戸幕府に居城の建設を命じられ、萩城の築城にとりかかかった。

重臣の熊谷元直益田元祥と共に築城総宰(総責任者)に任じられ、萩城の普請を担った[3]。元直と元祥は毛利氏重臣の筆頭格であり、また元直は江戸町普請に携わった経験もあって、萩城普請では中心的な役割を担った[4]

だが、慶長10年(1605年)3月14日に天野元信(元直の娘婿)の者が事前に運び入れ、二の丸東門入り口の松の木の下に積んでいた五郎太石(ごろたいし)の盗難が発生した[5]。天野方は盗人3人を捕らえると、同じく普請に従事していた益田元祥・景祥父子方の者と判明したため[5]、益田方の普請奉行として肝煎を務めていた栗山兼成(三郎右衛門)の元に訴えた。兼成は事を大きくせずに解決しようと努めたが、天野方は益田方の人夫70人が荷担した大規模な盗みであると主張し、前々夜も20人が盗みに加わったとして、合計2100荷の五郎太石の弁償を要求する。栗山は前々夜の盗みについては証拠が無いため、その要求を拒否した。

そこで、熊谷方の肝煎である生駒三郎兵衛が調停しようとするも、失敗する。熊谷側は天野方に味方したとされ、天野方は以後の対応でも強硬路線を崩さなかった。両者の対立が激しくなったため、宍道政慶宍戸景好(善佐衛門)、柳沢景祐らが相次いで仲裁に乗り出し、やがて1700荷の弁償を提案するが、天野方は工事遅延を理由に即日2100荷の弁償を求めて譲らなかった。

3月17日、益田方は盗人である家人3人を斬首に処するが、天野方は納得せず、熊谷方と組んで奉行所に訴えを起こした[5]。この提訴には、元信のほか、熊谷元実三輪元祐、佐波次郎左衛門尉、牧野次郎右衛門尉、中原善兵衛尉らが加わった[5]

この訴えにより、東門の普請が中断しただけでなく、2代将軍となった徳川秀忠を祝うための輝元の上洛まで遅れた。輝元は益田元祥・景祥父子に事を託して、4月に出立した。築城作業の遅延が江戸幕府の不興を買うことを恐れた輝元は、6月下旬に萩に帰城して元政の報告を受けた後、元直と元信らを罪に定めた。

そして、7月2日に輝元は熊谷・天野の屋敷に軍勢を送った[6]。これにより、元直は妻や息子の次郎左衛門尉とともに宍戸元富らに、元信は妻とともに桂元綱らによって、それぞれ討たれるに至った[6]。討手は両者らに自害を求めたが、拒否したために殺害したとされる。

三輪元祐、中原善兵衛尉は追放相当であったが、家中を乱す行為が目に余ったとの理由で同じく討手が下され、元祐は香川景貞らに、善兵衛尉は庄原元信らによって、それぞれ討たれている[6]。佐波次郎左衛門尉については殺害の意図はなく、追放処分が相当であったが、元直とともにいたために一緒に殺害された[6]

他方、熊谷元実は殺害相当であったが、福原広俊の縁者だったため、追放処分で済まされた[6]。牧野次郎右衛門尉もまた、追放処分に処されている[6]

さらに、この事件は毛利家中において大きな地位を占めていた、熊谷氏天野氏の一族にも処罰が及んだ[7]。熊谷氏では、元直の甥・熊谷元吉は襲撃時に元直をかばったが、従来からの一味ではないとされ、追放処分とされた[7]。天野氏では、天野元因(元信の兄・元友の嫡孫)や天野元重(元信の兄・元祐の嫡子)が同じく、元信襲撃時に元信をかばっているが、こちらも従来からの一味ではないとされ、追放処分とされた[7]

なお、熊谷氏と天野氏の一族の中でも、熊谷就真(元直の父・高直の弟)や天野元嘉(元信の兄)は、全く関与がなかったとして処罰されなかった[7]。また、元直の嫡子・熊谷直貞毛利秀元の姉妹との間に生まれた熊谷元貞は、秀元の嘆願により処罰を免れ、長府藩で養育された[7]

12月14日、輝元は家臣団の動揺を抑えるべく、福原広俊以下の家臣819名の連署起請を出させている[8][9]

考察[編集]

  • 輝元自らが書いた罪状書[10]では、熊谷元直天野元信らの過去の横暴や軍紀違反、キリスト教信仰などが罪に問われている[7]。 これらのことから、輝元が本事件を機会として、熊谷氏天野氏といった有力国人の力を削減し、家臣団の引き締めを図ったものと推定される[11]
  • 元直と元信は、両名ともキリシタンであった(自害を拒否したのも信仰上の理由とされる)。輝元の罪状書では、キリスト教信仰を禁止したにもかかわらず、それを無視し、一族や縁者までも改宗させたことが、罪科として記されている[12]
  • イエズス会は、元直と元信は両名や一族が棄教しなかったことが、粛正の理由であるとしている。元直は殉教者として、のちに祭られている[13]

熊谷氏や天野氏らが厳しく処断された一方で、事件のきっかけを作った益田元祥景祥父子は全く処罰の対象とならなかった[14]。むしろ、彼らの毛利家中における地位や重要性は、この事件後に上昇している[14]

史料など[編集]

  • 事件については、山口県文書館所蔵の「毛利三代実録」や、毛利博物館に保存されている関係文書に示されている。
  • 東門の石垣には「是より南益田仕口」との銘文が刻まれており、五郎太石事件との関連性が推定できる遺物となっている。

脚注[編集]

  1. ^ 光成準治 2019, p. 329.
  2. ^ 五郎太石事件 - 須佐郷土史研究会・東京須佐史談会
  3. ^ 光成準治 2019, p. 333.
  4. ^ 光成準治 2019, pp. 332–333.
  5. ^ a b c d 光成準治 2019, p. 334.
  6. ^ a b c d e f 光成準治 2019, p. 336.
  7. ^ a b c d e f 光成準治 2019, p. 337.
  8. ^ 光成準治 2019, p. 339.
  9. ^ 福原廣俊外八百十九名連署起請文(大日本古文書 毛利家文書)
  10. ^ 毛利輝元自筆熊谷元直罪状書、同天野元信罪状書(大日本古文書 毛利家文書)
  11. ^ 光成準治 2019, pp. 339–340.
  12. ^ 光成準治 2019, p. 338.
  13. ^ 2.萩・山口の殉教者 - カトリック中央協議会
  14. ^ a b 光成準治 2019, p. 340.

参考文献[編集]

  • 光成準治『毛利輝元 西国の儀任せ置かるの由候』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2016年5月。ISBN 462307689X 

関連項目[編集]