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五郎太石事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

五郎太石事件(ごろたいしじけん)とは、江戸時代初期に発生した毛利氏の家中騒動。熊谷党誅罰事件とも称される[1]

萩城普請に必要な五郎太石(石垣の裏や隙間を埋める小石や砂利)が盗まれたことを発端として、重臣の熊谷元直天野元信らが主君・毛利輝元によって粛清された事件である[2]

概要

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背景

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毛利氏と同格であった有力国人領主といえども、豊臣期末期には毛利氏家中に包摂され、自律性を喪失していた。一方で毛利氏領国経営から排除されており、不満を抱きつつ、専制化していた毛利氏権力に絶対服従せない状況にあった[1]。 関ヶ原の敗北によって、輝元の専制的権力は大きく揺らぐことになった。石田三成増田長盛ら豊臣奉行人との連携関係を重視する路線の中心にあった輝元出頭人は、徳川政権への移行によって後面に控えざるをえなくなった。 軍事力編成の面においても、安国寺恵瓊が処刑されたことに伴い、組編成の指揮をとることのできる人材が必要とされた[3]。 また、豊臣期における毛利氏家中の有力国人層の石高を高い順に並べると、吉見氏平賀氏益田氏三沢氏・熊谷元直・天野元信・宍道氏・細川氏と続き、熊谷・天野は一族を合計すると三沢を上回る。吉見は吉見広行不行跡の影響もあり冷遇、平賀は関ヶ原後に家中から離脱、三沢と細川は長府藩に属することとなったため、益田・熊谷・天野・宍道が萩本藩内における旧国人層の上層に位置していた[4]。 以上のような要因に基づき、関ヶ原後元直は重要な役割を担うようになった[5]

萩城築城と対立

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慶長5年(1600年)10月の防長減封後、毛利輝元江戸幕府に居城の建設を命じられ、萩城の築城にとりかかかった。 熊谷元直は江戸町普請に携わった経験もあって、萩城普請では中心的な役割を担うこととなった[6]。 慶長10年(1605年)3月14日、元直の娘婿・天野元信の者が事前に運び入れ、二の丸東門入り口の松の木の下に積んでいた五郎太石(ごろたいし)の盗難が発生した[7]。天野方は盗人3人を捕らえると、同じく普請に従事していた益田元祥景祥父子方の者と判明したため[7]、益田方の普請奉行として肝煎を務めていた栗山兼成(三郎右衛門)の元に訴えた。兼成は事を大きくせずに解決しようと努めたが、天野方は益田方の人夫70人が荷担した大規模な盗みであると主張し、前々夜も20人が盗みに加わったとして、合計2100荷の五郎太石の弁償を要求する。兼成は前々夜の盗みについては証拠が無いため、その要求を拒否した。

3月15日、熊谷方の肝煎である生駒三郎兵衛が調停しようとするも、失敗する。熊谷側は天野方に味方したとされ、天野方は以後の対応でも強硬路線を崩さなかった。

3月16日、両者の対立が激しくなったため、公儀の調停者として宍道政慶宍戸景好(善佐衛門)、柳沢景祐らが相次いで仲裁に乗り出し、やがて1700荷の弁償を提案した。だが、天野方は工事遅延を理由に、即日2100荷の弁償を求めて譲らなかった。

3月17日、益田方は盗人である家人3人を斬首に処するが、盗難分の返還量に納得しなかった元信は義父元直と連携して提訴に及んだ[7]。提訴には、元信のほか、熊谷元実三輪元祐[注釈 1]・佐波次郎左衛門尉[注釈 2]・牧野次郎右衛門尉[注釈 3]・中原善兵衛尉の六名で元実・三輪・佐波・牧野は元信の指揮下で普請に当たっていた者で、元実・三輪・佐波は元信同様に元直と姻戚関係、あるいは縁戚関係にあったもと考えられる[7][注釈 4]

この訴えにより、東門の普請が中断しただけでなく、2代将軍となった徳川秀忠を祝うための輝元の上洛まで遅れた。輝元は益田元祥・景祥父子に事を託して、4月に出立し、同月22日に伏見に着き、秀忠に拝謁したのち、5月上旬に伏見を出た。築城作業の遅延が江戸幕府の不興を買うことを恐れた輝元は、5月下旬に萩に帰城すると、元直や元信らを罪に定めた。

処罰

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そして、7月2日に輝元は熊谷・天野の屋敷に軍勢を送った[10]。元直は宗瑞の面前で処罰されることを願い、嫡孫の次男二郎三郎(熊谷元貞)と三男猪之助を人質として提出した[11]。願いは叶わず、元直は妻や息子の次郎左衛門尉とともに宍戸元富らに殺害された[10]。人質の両名は桐原惣右衛門が随行し、毛利宗休邸に監禁された。その後阿曽沼邸を経て二郎三郎は洞春寺、猪之助は保福院に預けられることになったが猪之助は保福院への道中に殺害された。二郎三郎は長府へ移された[12]。 長府は秀元の居所であり、元直の嫡子・熊谷直貞毛利秀元の姉妹との間に生まれため、秀元が助命嘆願したか[13]宗瑞が秀元との関係悪化を危惧して助命したと考えられ[14]、当面、長府藩で庇護されることになった[13]。 元信は妻とともに桂元綱らによって殺害された[10]。三輪元祐、中原善兵衛尉は追放相当であったが、家中を乱す行為が目に余ったとの理由で同じく討手が下され、元祐は香川景貞らに、善兵衛尉は庄原元信らによって、それぞれ討たれている[10]。佐波次郎左衛門尉については殺害の意図はなく、追放処分が相当であったが、元直とともにいたために一緒に殺害された[10]

他方、熊谷元実は殺害相当であったが、福原広俊の縁者だったため、追放処分で済まされた[10]。牧野次郎右衛門尉もまた、追放処分に処されている[10]

さらに、この事件は毛利家中において大きな地位を占めていた、熊谷氏天野氏の一族にも処罰が及んだ[13]。熊谷氏では、元直の甥・熊谷元吉は襲撃時に元直をかばったが、従来からの一味ではないとされ、追放処分とされた[13]。天野氏では、天野元因(元信の兄・元友の嫡孫)や天野元重(元信の兄・元祐の嫡子)が同じく、元信襲撃時に元信をかばっているが、こちらも従来からの一味ではないとされ、追放処分とされた[13]

なお、熊谷氏と天野氏の一族の中でも、熊谷就真(元直の父・高直の弟)や天野元嘉(元信の兄)は、全く関与がなかったとして処罰されなかった[13]

処罰後

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12月14日、輝元は家臣団の動揺を抑えるべく、福原広俊以下の家臣819名の連署起請を出させている[15][16]

熊谷元実・熊谷元吉・天野元因は慶長13年から15年頃に帰参を許された。ただし、元実は嶋村、元吉は小澤と熊谷の名字をいったん捨てている[17]

佐波氏は存命していた父・佐波広忠が弁明[注釈 5]した結果、広忠をもって存続が許された。

熊谷元貞は慶長17年の秀就の初入国にあわせて対面を許され、帰参している[注釈 6]。元貞死没時には2000石を宛行われ、給地の面では断絶前とほぼ同程度を回復した[注釈 7]

考察

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  • 輝元自らが書いた罪状書[19]がすべて真実であるかは不明とされる。五郎太石事件解決に向けた調停を拒否して、輝元の上洛を遅らせたこと[注釈 8]、縁組や姻戚・血縁関係を通じて、熊谷・天野派を形成しようとしたこと、輝元の権威を失墜させる行為などが共通して罪に問われている[13]
  • 元直と元信は、両名ともキリシタンであった(自害を拒否したのも信仰上の理由とされる)。元直に対する罪状書では、キリスト教信仰を禁止したにもかかわらずにそれを無視し、一族や縁者までも改宗させたことが、罪科として記されている。一方でキリシタンであることが以前から問題視されていたことを示す史料は他に確認できないため、処罰理由の最大の要因とはいえないとの指摘もある[20]
  • イエズス会は、元直と元信の両名や一族が棄教しなかったことが、輝元による粛清の理由であるとしている。元直は殉教者として、のちにローマ教皇庁によって列福されている(ペトロ岐部と187殉教者[21]
  • 輝元は国人層の自律性を否定し、出自にかかわらず家臣団を同質化しようとする指向性を持っていたものの、この時点で国人層の同質化を一気に進めることは危険が伴った。輝元は本事件に対し、処分には強弱をつけた。忠誠を尽くせば旧国人層といえどもぞんざいな扱いを受けることはないことを可視化した[22]。一方で藩主権威に関わることは強権を持って対応し、藩主権威の回復と家臣団を引き締めることにも成功させている[23]
  • 事件のきっかけを作った益田元祥景祥父子は全く処罰の対象とならなかった[24]。むしろ、彼らの毛利家中における地位や重要性は、この事件後に上昇したものの[24]、領主としての自律性高める方向には向かわず、毛利氏の官僚的な性格へと変質していった[25]

史料など

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  • 事件については、山口県文書館所蔵の「毛利三代実録」や、毛利博物館に保存されている関係文書に示されている。
  • 東門の石垣には「是より南益田仕口」との銘文が刻まれており、五郎太石事件との関連性が推定できる遺物となっている。

脚注

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注釈

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  1. ^ 三輪元徳は、身分の低い者だったが毛利隆元が取りたてた。元祐の正室は熊谷元直の弟景真の娘[8]
  2. ^ 石見有力国人領主佐波隆秀の嫡孫。熊谷元直の正室は佐波隆秀の娘、次郎左衛門尉の正室は熊谷元直娘の重縁関係。
  3. ^ 出雲有力国人湯氏惣領。慶長初年頃から牧野(槙野)と称している[9]
  4. ^ 牧野と元直の間の姻戚関係は不詳。三輪・佐波が元直と姻戚関係であったことからの推測で元直もしくは元信と何らかの姻戚関係があったと光成準治は推測している。
  5. ^ 熊谷氏一族や天野元信と親密ではない、関ヶ原後出雲に入国した堀尾氏が召し抱えようとしたが広忠は誘いに乗らなかったことなど[18]
  6. ^ 熊谷家文書では慶長20年(1615年)の大坂の陣において秀元に同行して戦場に赴き、大坂城落城の際に城中へ討ち入って手柄を立てた結果、熊谷家再興を許されたとしている[9]
  7. ^ 自律的な国人としての性格を失った熊谷家を警戒する必要は小さく、秀元と血縁関係にあることから配慮は必要とされていた[9]
  8. ^ 光成準治はこの調停拒否による上洛遅延が処罰実行の指最終決定をもたらしたとしている。

出典

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  1. ^ a b 光成準治 2016, pp. 329.
  2. ^ 五郎太石事件 - 須佐郷土史研究会・東京須佐史談会
  3. ^ 光成準治 2016, pp. 329–330.
  4. ^ 光成準治 2022, pp. 163.
  5. ^ 光成準治 2016, pp. 331.
  6. ^ 光成準治 2016, pp. 332–333.
  7. ^ a b c d 光成準治 2016, pp. 334.
  8. ^ 『福原家文書』
  9. ^ a b c 光成準治 2022, pp. 179.
  10. ^ a b c d e f g 光成準治 2016, pp. 336.
  11. ^ 光成 2022, pp. 178.
  12. ^ 光成 2022, pp. 178–179.
  13. ^ a b c d e f g 光成準治 2016, pp. 337.
  14. ^ 光成 2022, pp. 179.
  15. ^ 光成準治 2016, pp. 339.
  16. ^ 福原廣俊外八百十九名連署起請文(大日本古文書 毛利家文書)
  17. ^ 光成準治 2022, pp. 176–177.
  18. ^ 光成準治 2022, pp. 174–175.
  19. ^ 毛利輝元自筆熊谷元直罪状書、同天野元信罪状書(大日本古文書 毛利家文書)
  20. ^ 光成準治 2016, pp. 338.
  21. ^ 2.萩・山口の殉教者 - カトリック中央協議会
  22. ^ 光成準治 2022, pp. 176、178.
  23. ^ 光成準治 2016, pp. 339–340.
  24. ^ a b 光成準治 2016, pp. 340.
  25. ^ 光成準治 2022, pp. 176.

参考文献

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  • 光成準治『毛利輝元 西国の儀任せ置かるの由候』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2016年5月。ISBN 462307689X 
  • 光成準治『毛利氏の御家騒動 折れた三本の矢』平凡社〈中世から近世へ〉、2022年10月。ISBN 978-4-582-47752-8 
  • 西ヶ谷恭弘 編『定本 日本城郭事典』秋田書店、2000年。ISBN 4-253-00375-3 
  • 『戦乱中国の覇者毛利の城と戦略』成美堂出版〈Seibido mook〉、1997年。ISBN 4-415-09216-0 

関連項目

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