馬依澤
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人物 文化・教育 |
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馬依澤(ば いたく、Ma Yize 、921年7月29日 - 1005年6月19日(景徳2年5月10日))[1]は10世紀、北宋時代の中国で活躍したアラビア系の天文学者である。北宋の天文観測所の所長を務めた。
10世紀始めの北宋の文治政治は天文学の研究を勧め、太祖によって、馬依澤は天文観測所の役人に任じられた。
馬依澤はイエメンからオマーンあたりで生まれたアラブ人で、中国名の馬はアラブ名のムハンマドから来ている。中国での馬依澤は王処訥を助け、応天暦の編纂など天文学の分野で働いた。イスラム天文学の知識を生かし、観測と天体の周期的運動の計算を行った。応天暦は建隆4年(963年)に完成した。
馬依澤はイスラム天文学の天文学書を中国語に翻訳したと考えられ、その中にはバッターニーの著書が含まれる。
馬依澤の応天暦の編纂の功績により貴族に列せられ、その息子たちは皇帝の天文観測所の職を継いだ。
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ 陳久金 (1996年7月) (中国語). 《回回天文學史研究》. 中華人民共和國: 廣西科學技術出版社. pp. 第55頁-第56頁. ISBN 9787806193259 . "關於馬依澤的生平和來華後的活動,在《懷寧馬氏宗譜·始祖妣序》中有更詳細的記載:「馬依澤公,號漁叟。西域魯穆國人。肇由來中,時建隆二年,歲次辛酉。旌表天文略部,授欽天監,世襲侯爵。築居陝西西安府涇縣永安鎮,李尚書塔傍。來中時四旬,生於勒比阿熬勿里月第二十日,故於景德二年五月初十日。」可知他不但將自己的阿拉伯語名字音譯成漢名,同時還根據中國人的習慣,取號曰漁叟。此處還載明了其生卒年月日,為研究他的生平提供了方便。按照該宗譜用實歲的傳統,從建隆二年辛酉來華時四十歲,可推知其誕生於公元921年;死於景德二年,即1005年。有趣的是,其生日用伊斯蘭歷表示,忌日用漢歷表示。隨鄉入俗,生年和死年使用不同的歷法,這是當時歷史的實錄。看来,古代人們並不懂得兩種歷的換算方法,故只能以兩種歷日共載。伊斯蘭歷的名都是用專名表示的,經查,勒比阿里月,就是伊斯蘭歷三月Rabia-al-awwel的音譯。前人將其譯為賴比爾敖外魯,其音也相近。由921年伊斯蘭歷三月二十日和1005年農歷五月初十日,便可推得馬依澤生於公元921年7月29日,死於1005年6月19日。"