馮司直
馮司直 | |
---|---|
Who's Who in China 5th ed. (1936) | |
プロフィール | |
出生: | 1884年(清光緒10年) |
死去: |
1949年(民国38年) 中華民国山西省 |
出身地: | 清山西省平定州 |
職業: | 政治家・教育家 |
各種表記 | |
繁体字: | 馮司直 |
簡体字: | 冯司直 |
拼音: | Féng Sīzhí |
ラテン字: | Feng Szu-chi |
和名表記: | ふう しちょく |
発音転記: | フォン スージー |
馮 司直(ふう しちょく)は中華民国の政治家・教育者。閻錫山率いる山西派の要人。後に南京国民政府(汪兆銘政権)に参加した。字は振邦。号は天放。
事績
[編集]山西省の教育者として
[編集]1903年(光緒29年)、癸卯科挙人となり、後に山西大学堂で学ぶ。翌1904年(光緒30年)秋、日本に留学して、明治大学政治科で学んだ。1907年(光緒33年)に帰国し、平定中学校長、平定教育会会長、平定勧学所所長、平定州議会議長などを歴任した。
1917年(民国6年)、閻錫山配下として、山西督軍公署秘書に任ぜられた。以後、督軍公署参事、山西省公署教育科科長を歴任する。1918年(民国7年)に山西省教育会会長、1919年(民国8年)に第5次全国教育連合会主席、1925年(民国14年)に中華教育改進社[1]年会主任をつとめている。また、洗心社という組織を結成し、週刊紙『来復報』を刊行して、孔孟の教えを宣伝した。
1927年(民国16年)、山西省政治検査委員会委員、山西省村政処副処長となる。その後、閻錫山が北伐で北京・天津一帯に進出したことに伴い、1929年(民国18年)3月[2]、馮司直は天津市政府秘書長兼社会局局長に任ぜられた。閻錫山が中原大戦で敗北したため、1931年(民国20年)1月[3]、山西省政府委員兼教育庁庁長に転じた。翌年10月、辞職し、山西省政府参議に異動している。1932年(民国21年)、太原師範国民学校校長に任ぜられた。しかし1936年(民国25年)春に、学生デモを武力鎮圧したことの批判に遭い、免職されている。
親日政権への参加
[編集]日中戦争(抗日戦争)勃発後、馮司直は親日政権に参加し、和平促進会会長、新民会会長をつとめている。1941年(民国30年)、山西省情報処処長に任ぜられ、雑誌『情報月刊』を刊行して親日宣伝を展開した。翌1942年(民国31年)6月、華北政務委員会山西省宣伝処処長となっている。翌年1月[4]、山西省省長に昇格する。2月、華北河渠委員会委員を、6月、山西省保安司令を、それぞれ兼任している。1944年(民国33年)6月、山西省長を辞任した。
日本敗北後、馮司直は閻錫山に降伏し、いったんは赦免された。しかし山西省内でこのことに対する反発が高まったため、結局馮は漢奸として裁かれることになる。1946年(民国35年)8月8日、馮は山西省高等法院で死刑判決を言い渡されたが、執行されること無く収監され続け、1949年(民国38年)に獄死した[5]。享年66。
注
[編集]参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 平定県志編纂委員会編『平定県志』社会科学文献出版社、1992年。ISBN 7-80050-352-6。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
南京国民政府(汪兆銘政権)
|
---|