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馮司直

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
馮司直
Who's Who in China 5th ed. (1936)
プロフィール
出生: 1884年光緒10年)
死去: 1949年民国38年)
中華民国の旗 中華民国山西省
出身地: 清の旗 山西省平定州
職業: 政治家・教育家
各種表記
繁体字 馮司直
簡体字 冯司直
拼音 Féng Sīzhí
ラテン字 Feng Szu-chi
和名表記: ふう しちょく
発音転記: フォン スージー
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馮 司直(ふう しちょく)は中華民国の政治家・教育者。閻錫山率いる山西派の要人。後に南京国民政府(汪兆銘政権)に参加した。振邦。号は天放

事績

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山西省の教育者として

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1903年光緒29年)、癸卯科挙人となり、後に山西大学堂で学ぶ。翌1904年(光緒30年)秋、日本に留学して、明治大学政治科で学んだ。1907年(光緒33年)に帰国し、平定中学校長、平定教育会会長、平定勧学所所長、平定州議会議長などを歴任した。

1917年民国6年)、閻錫山配下として、山西督軍公署秘書に任ぜられた。以後、督軍公署参事、山西省公署教育科科長を歴任する。1918年(民国7年)に山西省教育会会長、1919年(民国8年)に第5次全国教育連合会主席、1925年(民国14年)に中華教育改進社[1]年会主任をつとめている。また、洗心社という組織を結成し、週刊紙『来復報』を刊行して、孔孟の教えを宣伝した。

1927年(民国16年)、山西省政治検査委員会委員、山西省村政処副処長となる。その後、閻錫山が北伐北京天津一帯に進出したことに伴い、1929年(民国18年)3月[2]、馮司直は天津市政府秘書長兼社会局局長に任ぜられた。閻錫山が中原大戦で敗北したため、1931年(民国20年)1月[3]、山西省政府委員兼教育庁庁長に転じた。翌年10月、辞職し、山西省政府参議に異動している。1932年(民国21年)、太原師範国民学校校長に任ぜられた。しかし1936年(民国25年)春に、学生デモを武力鎮圧したことの批判に遭い、免職されている。

親日政権への参加

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日中戦争(抗日戦争)勃発後、馮司直は親日政権に参加し、和平促進会会長、新民会会長をつとめている。1941年(民国30年)、山西省情報処処長に任ぜられ、雑誌『情報月刊』を刊行して親日宣伝を展開した。翌1942年(民国31年)6月、華北政務委員会山西省宣伝処処長となっている。翌年1月[4]山西省省長に昇格する。2月、華北河渠委員会委員を、6月、山西省保安司令を、それぞれ兼任している。1944年(民国33年)6月、山西省長を辞任した。

日本敗北後、馮司直は閻錫山に降伏し、いったんは赦免された。しかし山西省内でこのことに対する反発が高まったため、結局馮は漢奸として裁かれることになる。1946年(民国35年)8月8日、馮は山西省高等法院で死刑判決を言い渡されたが、執行されること無く収監され続け、1949年(民国38年)に獄死した[5]。享年66。

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  1. ^ 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』2048頁による。『平定県志』637頁は、「中国教育促進会」としている。
  2. ^ 徐同上、劉寿林ほか編『民国職官年表』1000頁による。『平定県志』は1928年(民国17年)秋とする。
  3. ^ 徐同上、劉同上896頁による。『平定県志』は1930年(民国19年)8月とする。
  4. ^ 徐同上、劉ほか編1132頁による。『平定県志』は「民国31年」としているが、誤りと思われる。
  5. ^ 『平定県志』による。

参考文献

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馮司直別影(Who's Who in China 4th ed.,1931)
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 平定県志編纂委員会編『平定県志』社会科学文献出版社、1992年。ISBN 7-80050-352-6 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  南京国民政府(汪兆銘政権
先代
蘇体仁
山西省長
1943年1月 - 1944年6月
次代
王驤