内町 (姫路市)
内町 (姫路市) | |
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地域名 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 兵庫県 |
市町村 | 姫路市 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
市外局番 | 079[1] |
ナンバープレート | 姫路 |
内町(うちまち)は兵庫県姫路市の中心部を指す地域名。おおむね姫路城の外曲輪の範囲内にある旧町人地・中下級武士の居住区を指し、地域名も外堀の内側に由来する[2]が、行政上の地名ではない。
南部は姫路市立白鷺小中学校の校区、東部は姫路市立城東小学校の校区、北部は姫路市立野里小学校の校区、南西部の一部は姫路市立船場小学校の校区に属する。内町という地域区分は歴史的な区分であり、小学校の校区名(白鷺校区(あるいは統合前の城南校区、城巽校区)など)で分類される事が多い[注釈 1]。
内町に対して、その外側に広がる町を外町(そとまち)と称し、それらに含まれる町を合わせて姫路78町と呼ばれた[注釈 2][3]。内町・外町を総称して姫路町と称する[4]。本項では南に隣接する地区である飾万津口(しかまづぐち)[注釈 3]についても解説する。また、外町のうち、北に隣接する野里(のざと)のうち姫路城外曲輪に含まれる町丁も示す。野里および東に隣接する神谷(かみや)、西に隣接する船場(せんば)については別項で解説する。
歴史
[編集]姫路城改修以前
[編集]姫路市中心部は古代は「日女道」、中世は「姫道村」と呼ばれ飾東郡に属した[5][6]。芦屋道海[注釈 4]『播磨府中めぐり』(天正4年(1576年))[7]・同『近村めぐり一歩記(ひとあるき)』(天正3年(1575年))[7]によれば、姫路城改修前は姫山のふもとに中ノ村(中村、姫路村、姫山の里とも)が100戸ばかりの村としてあり、その南(二階町付近)に宿の本村が100戸ほど、宿の本村の東南に高尾の宿村が40戸ほど、同じく西南に江川村が30戸ほどあったという。他に西の福中村と東の国府寺村の田畑が姫路城下に掛かっていた[8]。
江戸時代
[編集]1601年(慶長6年)より行われた池田輝政による姫路城改修に伴う「慶長の町割り(町直しとも)」において、天守を始めとした内曲輪と家老・上級藩士の居住区である中曲輪(現在の姫路市本町68番地とこれより分割された地番(総社本町を含む)に相当)の外側に、中・下級藩士の居住区および町人地・寺院が配置されたのが内町の起こりである[9]。
内町の町割りの基軸線は五軒邸付近や城外に顕著に残る「条里制に由来すると考えられる町割り」、射楯兵主神社(播磨国総社)付近の「播磨国府に由来すると考えられる町割り」および「慶長の町割りに際して、広峰山を山当てにした竪町筋を基軸とする町割り」の三種を主とする[10][11]。外堀に近いあたりを下級藩士(下級武士および中間・足軽)の居住地とし、それらには原則として町名に「町」を付けていなかった(十二所前、直養、光源寺前、北条口、下寺町裏、五軒邸、五郎右衛門邸。例外として同心町、忍町(飾万津口)[注釈 5]、鷹匠町(船場)。十二所前、直養、光源寺前には明治以後に「町」が付けられたが「ちょう」と読む)。また中曲輪に隣接する形で町人地を配置し、東側の町人地と武家地との間に西国街道をはさんで南北一直線に寺院を配している。西側では船場に船場本徳寺などを配している[12]。内町(および船場(龍野町など)・神谷(天神町など)・野里(大野町など))の町人地の町は「まち」と読み、後から出来た町は「ちょう」と読ませて「まち」と読むことを許さなかったという[13]。
内町からさらに四方に延びる街道沿いにも下級藩士の居住区および町人地が設けられ、野里門の北が野里、外京口門の東が神谷、飾万津門の南が飾万津口、そして福中門・車門の西が船場と呼ばれている[14]。野里は播磨国風土記に「大野郷」として名前が見える古い町で、中近世には芥田氏が鋳物師棟梁として力を持っていた[15]。船場は本多忠政が二股川を整備して高瀬舟を行き来出来るようにして「船場川」と呼ばれるようになり、その集積した物資の問屋を置いた場所である[16]。神谷は神屋ともいい(現在の町名は神屋町である)、総社の御旅所があったからという説、紙漉きがあったという説、九所御霊天神社に由来する説などがある[17]。
内町における西国街道は本来は本町や坂元町を通っていたが、寛永の頃に中堀を浚渫した土砂を道に敷いたために通行の障害となり、俵町や福中町へ迂回するようになっている[18]。
明治・大正時代
[編集]1871年(明治4年)廃藩置県以後は内曲輪・中曲輪は軍用地として武家屋敷の撤去が行われ[19]「姫路市本町68番地」となり[注釈 6]、第10師団・歩兵第10連隊・歩兵第39連隊他の関連施設が建設され[20]、内町は軍都姫路の中心として発展する[21]。1889年(明治22年)4月1日に姫路に市制が施行された際には内町は船場・野里・神谷の一部と共にその中心となる。
年 | 戸数/世帯数 | 人口 | 備考 |
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1891年(明治24年) | 5662戸 | 男12137
女12471 |
内町・船場・野里・神谷の計 |
1909年(明治42年) | 9629戸 | 38247 | |
1920年(大正9年) | 13179世帯 | 67488 | 国衙村・市殿村の一部を編入後 |
昭和以後
[編集]1945年(昭和20年)の7月3日深夜の姫路空襲で内町はごく一部を除き焼失・壊滅してしまい[注釈 7][23]、姫路城など以外の戦前からの建築物はほぼ残存していない。瓦礫撤去のために1946年(昭和21年)から1949年(昭和24年)にかけて、福中町から西二階町の間の道路に線路を引いて街中に蒸気機関車が乗り入れている[24]。終戦直後は残存した陸軍の諸施設を内町で焼失した市役所や学校の代替として一時使用している[25]。
戦後は曲折が多くて狭い旧城下町時代の道路網を近代的な広い道路網に改修することを柱とした戦災復興都市計画による大幅な区画整理が行われ、中心部を姫路駅から姫路城大手門まで貫通する幅50mの大手前通りや東西の国道2号などが建設される[26]。また船場川が本多忠政による改修で外曲輪南西角で大蔵前町の東へ屈曲していた[注釈 8]のを直線形に改めて旧流路を埋め立てている[27]。1981年(昭和56年)2月14日に東側の復興第2工区が、1984年(昭和59年)9月21日に西側の復興第1工区が換地処分され[28][29]町名・町域が変更・整理されている。
戦後は1955年(昭和30年)の大手前通り開通に伴う商店街の縮小[21]やドーナツ化現象に伴う人口流出で、白鷺小中学校の前身の一つである城南小学校の児童数が戦後最多の1958年(昭和33年)度の1852人から、白鷺小への統合直前の2008年(平成20年)度には122人まで減少する[30][注釈 9]など、一時は人口が大幅な減少傾向にあったが、2009年(平成21年)ごろより再開発で大型マンション等が建設されていることにより人口は増加傾向にある[31]。
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大正時代の姫路市街。絵はがきより。
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姫路空襲(1945年(昭和20年))から2年後、1947年(昭和22年)11月1日の兵庫県姫路市中心部。
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姫路駅前再整備後の大手前通り。
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2019年時点の内町を姫路城天守より。
含まれる町丁
[編集]凡例・補足:
- 町名リンク先も参照。
- 内町の分類は橋本政次『姫路市町名字考』p.2-10を、飾万津口は同p.20-22を、野里は同p.10-12を元に現在の町名に対応させた。
- 江戸時代の分類は特記無き場合は町人地。
- 明治初期から市制施行まで各町名に「姫路」を冠している。
- 校区欄の校名は「姫路市立○○小学校/中学校/小中学校」を省略表記。旧城南小・旧城巽小→旧白鷺小の中学校は旧白鷺中。※印の区域は教育委員会への届出により白鷺小中学校への変更可能。
- 神屋町6丁目・朝日町・駅前町および周辺で姫路駅周辺土地区画整理事業が施工中(2030年3月31日まで予定。2024年7月10日現在)[32]のため、町域変更の可能性がある。
内町の町丁
[編集]町名 | 読み[33] | 郵便番号[34] | 世帯数[33] | 人口[33] | 主な施設・備考/概要 | 校区[35] |
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本町 | ほんまち | 670-0012 | 281[注釈 10] | 496[注釈 10] | 国道2号以南が内町に属する本来の本町
以北は中曲輪・内曲輪(本町 (姫路市)、姫路城#姫路市本町68番地も参照) |
白鷺小中(旧・城南小、 東部一部は旧・城巽小) (北側一部は野里小/城乾中) |
内町の中心、中ノ門の前の町。町年寄の役場である年行事所がおかれた[36][36]。 | ||||||
坂元町 | さかもとまち | 670-0016 | 88 | 121 | 白鷺小中(旧・城南小) | |
戦前の繁華街で演芸場・映画館があった[18][38]。 | ||||||
福中町 | ふくなかまち | 670-0017 | 142 | 265 |
| |
福中村のうち外曲輪に取り込まれた部分。旅籠町[39]。伊能忠敬も1811年・1813年の二度宿泊している。名称は府中の転じたものという[40]。 | ||||||
西二階町 | にしにかいまち | 670-0901 | 158 | 310 | ||
西国街道沿いに脇本陣の那波屋が置かれ、戦前から戦後しばらくにかけて非常に栄えた商店街だった[41][42]。 | ||||||
魚町 | うおまち | 670-0905 | 20 | 38 |
| |
区画整理前は西魚町と呼ばれた。歓楽街として知られる[43][44]。 | ||||||
立町 | たてまち | 670-0903 | 34 | 65 |
| |
区画整理までは竪町と称した。街道に直交することから「姫路の七不思議のひとつ・横に竪町」[注釈 12]と呼ばれた[45][46][47][48]。 | ||||||
南町 | みなみまち | 670-0912 | 64 | 96 | ||
飾磨津門の内側に位置する[49]。元禄ごろは内豆腐町と呼ばれた[50][51]。 | ||||||
白銀町 | しろがねまち | 670-0902 | 37 | 70 | ||
大手前通りと十二所前線の交差点西側。銀行・保険・証券会社のビルが多く建つ[52][53]。 | ||||||
塩町 | しおまち | 670-0904 | 117 | 161 |
|
白鷺小中(旧・城南小) (西側一部は船場小/琴陵中※) |
元「西塩町」。第二次大戦前は芸妓置屋や待合がある他は静かな屋敷町だったが、戦後は魚町地区の一角としてスナックやバーが軒を並べる[54][55]。 | ||||||
十二所前町 | じゅうにしょまえちょう | 670-0911 | 136 | 221 | ||
江戸時代は武家地で十二所前と称した。第二次大戦後はビル街となる[56]。 | ||||||
綿町 | わたまち | 670-0921 | 138 | 316 |
|
白鷺小中(旧・城巽小) |
姫路藩家老河合道臣(寸翁)による藩政改革の一環として、藩内木綿の専売の決済のために藩札の一種・木綿切手を発行する切手会所と木綿買取を行う国産木綿会所とを置いた[57][58]。 | ||||||
二階町 | にかいまち | 670-0922 | 57 | 99 | ||
池田輝政の町割りの際に、姫路で初めて2階建ての建物が出来たことによるという[59][60]。 | ||||||
呉服町 | ごふくまち | 670-0923 | 48 | 84 |
| |
武士たちに必要な呉服を扱う商人が多くいたという[59]。 | ||||||
紺屋町 | こんやまち | 670-0924 | 45 | 76 |
| |
町割り当初は漆絵細工の職人がいたことから「塗師町」と称したが、のちに播磨産の藍をもちいた染屋が出来たことから「東紺屋町・西紺屋町」と称した[61]。 | ||||||
亀井町 | かめいまち | 670-0925 | 48 | 77 |
| |
町割り当初は籠手を扱う店があったことから「小手屋町」と称したが、カメがいる井戸があったということで亀井町と称する[61]。 | ||||||
東駅前町 | ひがしえきまえちょう | 670-0926 | 206 | 412 |
| |
もとは「光源寺前」。侍屋敷や家老高須隼人の下屋敷があった。光源寺は戦後の区画整理で十二所前町へ移転[62]。 | ||||||
元塩町 | もとしおまち | 670-0937 | 355 | 730 |
| |
町割り当初の「熊川(ゆうせん)町」は当地に「忍熊川(おしくまがわ)」が流れていた事による。のちに塩蔵が出来たという。文化年間に庶民向け学舎「熊川舎」が置かれた[60]。 | ||||||
古二階町 | こにかいまち | 670-0936 | 182 | 373 |
| |
二階町が西へ延びるにつれて当初の地域を古二階町と称した。東側の旧町名「茶町」は遊女宿にちなむという[60]。 | ||||||
北条口1丁目 | ほうじょうぐち | 670-0935 | 101 | 132 | ||
北条口2丁目 | 245 | 540 | ||||
北条口3丁目 | 269 | 593 |
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北条口4丁目 | 80 | 158 | ||||
北条口5丁目 | 133 | 274 | ||||
元侍屋敷地。南東にある北条への「北条口門」の内側に位置する[63]。 | ||||||
神屋町6丁目 | かみやちょう | 670-0836 | 190 | 353 | 神谷地区にまたがる
一部が外曲輪内(旧・北条口) | |
神屋町2~6丁目[注釈 13]のうち、区画整理によって唯一内町にまたがり、校区も白鷺小中学校区とされている[63]。 | ||||||
平野町 | ひらのまち | 670-0933 | 179 | 448 |
| |
平野村(現・北平野)からの移住者が開いた事による[64]。 | ||||||
坂田町 | さかたまち | 670-0931 | 272 | 533 | 東側一部は旧名「下寺町」 | 白鷺小中(旧・城巽小) (旧下寺町は城東小/東光中※) |
東部は(旧)下寺町。町割り時に防衛ラインとして寺院を集めたが、そのために西側の元からの坂田町で町屋が片側に寄ったために「左片町」と呼ばれたのが変化したとも、坂であったともいう[65]。 | ||||||
大黒壱丁町 | だいこくいっちょうまち | 670-0853 | 109 | 216 |
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白鷺小中(旧・城巽小) (東側一部は城東小/東光中) |
旧町名のうち、大黒町は縁起を担いだとも大黒屋という茶屋によるともいう。壱丁町は町の長さが一丁あったという。区画整理で両町と周囲の町丁の一部も取り込んだために二つの校区にまたがっている[65]。 | ||||||
下寺町 | しもでらまち | 670-0932 | 344 | 698 | 城東小/東光中 | |
旧町名「下寺町裏」の裏が取れたもの。元は武家地であった。「(旧)下寺町」は坂田町の東部[67]。 | ||||||
国府寺町 | こおでらまち | 670-0852 | 97 | 191 |
| |
内町の町大年寄を務めた国府寺家の旧地。外曲輪内が国府寺町、曲輪外が国府寺村(一部が当初より姫路市、残部は市殿村を経て姫路市)となった[68][69]。 | ||||||
五軒邸1丁目 | ごけんやしき | 670-0854 | 72 | 160 |
| |
五軒邸2丁目 | 164 | 312 |
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五軒邸3丁目 | 69 | 154 |
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五軒邸4丁目 | 224 | 469 | ||||
元武家地。町割り前に田畑の中に家が五軒あったことにちなむという。西部は上寺町とも呼ばれた寺院街[70][71]。 | ||||||
同心町 | どうしんまち | 670-0972 | 109 | 200 | 野里小/城乾中 (南東端は城東小/東光中) | |
姫路城の鬼門に当たる元武家地。同心屋敷[72][73]や伊賀屋敷[74]が置かれたという。区画整理で五軒邸の一部を編入[72]。 | ||||||
以下の町は区画整理の範囲外のため、小規模な町が残存している。 | 野里小/城乾中 | |||||
堺町 | さかいまち | 670-0014 | 46 | 84 |
| |
上寺町・竹田町・久長町の境に位置することによる町名[75][76]。 | ||||||
福居町 | ふくいまち | 670-0855 | 55 | 114 | ||
印南郡福居村(現・姫路市別所町)の鋳物師が移住してきたからとも、「下井の町」に福を冠したとも[77][73]。 | ||||||
竹田町 | たけだまち | 670-0013 | 30 | 59 |
| |
生野街道(但馬街道)が通り、但馬竹田城下の住人が移住してきたことによるという[78][79]。 | ||||||
生野町 | いくのまち | 670-0007 | 33 | 63 |
| |
但馬生野からの移住者による町であることによるという[80][81]。 | ||||||
八木町 | やぎまち | 670-0006 | 23 | 35 | ||
当初は「中井の町」と称した[82][73]。米の字を分けて名づけたものか[83]。 | ||||||
金屋町 | かなやまち | 670-0005 | 21 | 36 | ||
当初は「上井の町」と称した。鋳物師がいたことにちなむ[84][73]。 | ||||||
以下は野里のうち、姫路城外曲輪に含まれる町丁。 | ||||||
橋之町 | はしのまち | 670-0008 | 21 | 40 |
| |
かつてこの地に流れていた二股川(青見川)を渡る街道の橋があったという[85][73]。 | ||||||
福本町 | ふくもとまち | 670-0004 | 20 | 47 | ||
当初「比丘尼町」と称したものを好字で改めたものか[86][87]。 | ||||||
米屋町 | こめやまち | 670-0003 | 17 | 47 | ||
当初は小物衆屋敷、のち町人地。町割り以前は芥田氏の畑地だった[88][87]。 | ||||||
五郎右衛門邸 | ごろうえもんてい | 670-0857 | 99 | 202 | ||
元武家地(足軽町)。野里の鋳物師棟梁・芥田五郎右衛門に由来する[90][87]。 |
現存しない町名
[編集]町名 | 読み | 消滅時期 | 現状・解説 |
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上寺町 | かみでらまち | 江戸時代 | 五軒邸(西部)[70] |
(旧)下寺町 | しもでらまち | 1889年(明治22年) | 坂田町(東部)[91][92] |
下寺町裏 | しもでらまちうら | 1912年(大正元年) | 下寺町[91][92] |
茶町 | ちゃまち | 1981年(昭和56年) | 古二階町・平野町・元塩町・北条口[93] |
伽屋町 | とぎやまち | 北条口・古二階町
研ぎ屋があったことに由来する町名[94]。 | |
和泉町 | いずみちょう | 北条口・古二階町[95]
泉町とも[96]。 | |
東魚町 | ひがしうおまち | 坂田町・大黒壱丁町[97] | |
上久長町 | かみきゅうちょうまち | 五軒邸・堺町
久長という名家があったことによるという[98]。 | |
下久長町 | しもきゅうちょうまち | 五軒邸[99] | |
大黒町 | だいこくまち | 大黒壱丁町・総社本町・五軒邸[100]
大黒町交差点が現存。 | |
壱丁町 | いっちょうまち | 大黒壱丁町[101]
壱丁町交差点が現存。 | |
東二階町 | ひがしにかいまち | 1984年(昭和59年) | 二階町・呉服町・綿町[102] |
中二階町 | なかにかいまち | ||
東呉服町 | ひがしごふくまち | 呉服町・紺屋町・二階町[103] | |
中呉服町 | なかごふくまち | 呉服町[104] | |
西呉服町 | にしごふくまち | 白銀町・立町・西二階町[105] | |
中魚町 | なかうおまち | 亀井町・紺屋町・呉服町[106] | |
上白銀町 | かみしろがねまち | 白銀町・立町・南町[107] | |
下白銀町 | しもしろがねまち | 白銀町・立町・南町[108] | |
加納町 | かのうまち | 南町・立町・十二所前町
戦国期の書状に「加納村」あり。荘園時代の加納田の遺称か[109]。 内豆腐町とも。夫婦町とされたこともあるが誤記か[110]。 | |
新身町 | あらみまち | 塩町・立町・十二所前町[110]
新刀匠が居住していたことによるという[111]。 | |
大工町 | だいくまち | 紺屋町・呉服町・亀井町 | |
直養町 | ちょくようまち | 駅前町・南町
元武家地。藩主酒井家の御茶屋があった。 大正元年まで「直養」。 昔悪疫が流行した際に勅命により刑部社を祀ったことによるという[113][95]。 | |
光源寺前町 | こうげんじまえちょう | 亀井町・東駅前町・南町・白銀町・駅前町 | |
東紺屋町 | ひがしこんやまち | 紺屋町[115] | |
西紺屋町 | にしこんやまち | 紺屋町・呉服町・白銀町・亀井町[116] | |
恵美酒町 | えびすまち | 魚町・塩町
恵美酒屋という料理屋があったことにちなむ町名の花柳街[117]。 | |
俵町 | たわらまち | 西二階町・福中町 | |
福中内新町 | ふくなかうちしんまち | 福中町・魚町・坂元町・塩町・博労町[注釈 17]
備前門の内側で西国街道の西の出入口。城南小学校は当初ここにあった[39]。 | |
大蔵前町 | おおくらまえちょう | 博労町・塩町・十二所前町・福沢町[注釈 17]・忍町・久保町 |
飾万津口
[編集]飾万津口は飾万津道(飾磨街道)の沿道にある20ヶ町で構成される飾万津町の北端およびその周囲の町丁で、飾万津(姫路港)に通じる飾万津門の外側を指す。飾万津道沿道の町は曲輪外であったが町方に属し[83]、姫路藩町奉行所の管轄下にあって飾万津町会所(現在の飾磨区東堀に所在)で4人の大年寄が支配した[122]。
飾万津口の各町は1875年(明治8年)に豊沢村の一部となり、1888年(明治21年)には山陽鉄道が姫路駅を外堀の南側に開業し、外曲輪や中曲輪の城壁の撤去や堀の埋め立てが徐々に進んでゆく。飾万津口の各町は1889年の市制施行時には国衙村となっていて姫路市に含まれなかったが、1912年(明治45年)4月1日に国衙村より分離して姫路市に合併する[123]。
飾万津口の中でも久保町や忍町は昭和戦前から戦後にかけて民間の市場街として発展したが、内町同様に姫路空襲で壊滅し、さらに1957年(昭和32年)に姫路市公設卸売市場が手柄に開業したことで市場機能がそちらに移っている[21]。
飾万津口の町丁
[編集]町名 | 読み[33] | 郵便番号[34] | 世帯数[33] | 人口[33] | 主な施設・備考 | 校区[35] |
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朝日町 | あさひまち | 670-0934 | 232 | 275 | 一部が内町(北条口の一部)
|
白鷺小中(旧・城巽小) |
元北条村のうち山陽本線以北の区域[注釈 18]。1912年(明治45年)に国衙村より分離編入の際、内町の南東にあることからの朝日の連想と、同年の明治天皇の「朝つく日」に始まる御製[注釈 19]にあやかって命名された[63]。 | ||||||
駅前町 | えきまえちょう | 670-0927 | 34 | 79 | 一部が内町(光源寺前町・直養町のそれぞれ一部)
| |
町割りの際に「宿村」のうち外曲輪内に取り込まれなかった湿地帯が元になっている。
1889年(明治22年)に山陽鉄道姫路駅が開業。外堀やその城壁が失われたことで内町と一体化する[62]。1912年(大正元年)に豊沢より改称。1984年(昭和59年)の復興区画整理完了で西部の字万灯が西駅前町・南町となり、光源寺前町・直養町のそれぞれ一部が併合される[124]。 | ||||||
西駅前町 | にしえきまえちょう | 670-0913 | 37 | 55 |
|
白鷺小中(旧・城南小) |
豆腐町の一部が分離して、駅前町の一部を合わせて成立[125]。 | ||||||
豆腐町 | とうふまち
(とふまち[126]) |
670-0914 | 0 | 0 |
| |
飾万津20町の北端に位置する「外豆腐町」(南町の旧称・内豆腐町に対して)・「片豆腐町」(街道の片側にのみ町があったことから)として飾万津町奉行支配下にあった。西駅前町成立後、鉄道用地に残存した町名[127][126]。 | ||||||
南畝町 | のうねんちょう | 670-0961 | 38 | 73 |
| |
南畝町1丁目 | 62 | 90 | ||||
南畝町2丁目 | 301 | 526 | ||||
播磨国風土記に名前の見える地名。賀毛郡長畝村[注釈 22]の人が来て蒋(こも)を刈っていたところ当地の石作連が蒋を奪おうとして殺し川に投げ捨てたのが当地にあった長畝川の由来という[128]。
江戸時代は飾磨街道沿いを飾万津20町のひとつ「南畝町」、それ以外を「南畝村」と称した[129]。南畝町1・2丁目が江戸時代からの南畝町、南畝町(丁目無し)が元南畝村[130]。 | ||||||
忍町 | しのぶまち | 670-0917 | 341 | 472 | 白鷺小中(旧・城南小) (西側一部は船場小/琴陵中※) | |
飾万津20町のひとつ。忍びの者の組屋敷が置かれたことに由来するという町名[125]。 | ||||||
久保町 | くぼちょう | 670-0916 | 188 | 325 |
| |
窪地の湿地帯だったが大正時代に埋め立てられた。 | ||||||
高尾町 | たかおちょう | 670-0915 | 93 | 197 |
| |
久保町と逆に高台で畑地が多かった。
のちに多くの工場が進出し、昭和半ばからは住宅・商業地へと転じている[126]。 |
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 例として一般家庭用クリーンカレンダーの地区の区分け(姫路市環境局美化部リサイクル課、2024年5月2日閲覧)や市内連合自治会72地区 地域資源・活動等(姫路市役所市民局市民参画部市民活動推進課、2024年5月2日閲覧)では区域割りを小学校区によって分けている。ただし白鷺小中学校区は統合前の城南・城巽各校区を元にしている。
- ^ 88町ともいうが、これは末広がりの験を担いだものである。
- ^ 飾万津口の「飾万」は飾磨のことであるが、古くは飾万・飾磨の表記が混在していた。ここでは橋本(1956)p.19に合わせた。
- ^ 芦屋道海:芦屋道満の子孫と伝わる占術家で当時は英賀で三木道秋に仕える。
- ^ 忍町は元は組屋敷が置かれていたが、酒井氏時代半ばまでには町人地に転換されている(『姫路市史』第11巻上 史料編 近世2、付図参照)。
- ^ 後年に本町68番から分割された地番も存在する(例えば姫路神社は本町83番)が、それらも含めて「本町68番地」と総称される。
- ^ 『戦災概況図姫路』によれば北条口から平野町・坂田町・下寺町を経て五軒邸に至る一筋、竹田町・堺町・同心町以北が被災を免れている。また本町の姫路信用金庫本店から東の一部(『ふるさと城南ものがたり』p.57-62)や、後述する坂元町の旧第三十四銀行姫路支店など奇跡的に焼失を免れた区域もあるが、のちに取り壊された建物も多い。
- ^ 寛延二年大洪水ではこの屈曲が原因の一つとなって姫路城下が甚大な被害を被っている。
- ^ 内町に含まれない本町68番地に多数あった戦災被災者向け住宅群や公営住宅などが廃止・整理されていったことも大きい(本町 (姫路市)#世帯数と人口も参照)。
- ^ a b 中曲輪(本町68番地)含む
- ^ この西松屋は呉服店。育児用品店の西松屋は起源を同じくする別企業
- ^ 他の七不思議は「東に西明寺、北に南条(もしくは「木に竹の門」)、寺に虎屋、西に東光寺、南に北条、町に国府寺」(播磨鑑など)。
- ^ 神屋町1丁目は区画整理で事実上消失(国道2号敷地としてわずかに残る)。
- ^ もとは小野江の梛本、現在の兵庫県立姫路東高校付近にあった。本町 (姫路市)#岐阜町参照。
- ^ こども園ベイカは旧制姫路中学校の教諭で宣教師だったアメリカ人エドウィン・ベイカーが開設した姫路最古の幼稚園・ベイカ幼稚園が元になっている。
- ^ 姫路城周辺にわずかに現存する江戸期の住宅。(坊主町・五郎右衛門邸の双方共に個人宅、非公開。2020年時点)。
- ^ a b 博労町・福沢町は船場地区。
- ^ 朝日町は北条口門とその外側にあたるが、橋本(1956)p.21で飾万津口の項目の末尾に置かれていることなどから本節に含めた。
- ^ 「朝つく日豊栄登る山松のこずゑを占めてたづぞ啼くなる」
- ^ 高橋秀吉(大正時代の新聞社・鷺城新聞社社主の子で郷土・民俗資料「高橋秀吉コレクション」を残した郷土史家)の個人資料館。コレクションは没後に兵庫県立歴史博物館へ移管
- ^ 元塩町の姫路放送会館が廃止された後、報道機能がビル内に移転している。
- ^ 比定地未詳。
出典
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- ^ 角川地名 1988, p. 1270-1271.
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- ^ 復興の歩み 1960, p. 59-60.
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参考文献
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- 天川友親(編)、八木哲浩(校訂)『播陽万宝智恵袋 上巻』臨川書店、京都、1988年。ISBN 4-653-01684-4。
- 天川友親(編)、八木哲浩(校訂)『播陽万宝智恵袋 下巻』臨川書店、京都、1988年。ISBN 4-653-01685-2。
- 横山忠雄『ふるさと城南ものがたり』城南地区連合自治会、1989年 。
- 『姫路の都市計画』姫路市都市局計画部都市計画課、1996年3月。
- 都市問題経営研究所 編『お城本町地区第一種市街地再開発事業事業記念誌』お城本町地区市街地再開発組合、2003年。
- 白鷺中学校区地域夢プラン実行委員会『うちまちものがたり 姫路城下町』2006年 。
- 『兵庫県の地名Ⅱ』平凡社〈日本歴史地名大系〉、1999年。ISBN 4582490611。
- 播磨地名研究会『新・姫路の町名』神戸新聞総合出版センター、2007年。ISBN 9784343004444。
- 『城南小学校閉校記念 城南136年の思い出』白鷺中学校区地域夢プラン実行委員会城南部会、2009年。
- 『姫路の土地区画整理誌 創 2017』姫路市都市局市街地整備部区画整理課、2017年。
- 2020年姫路町屋等調査(野里地区)報告書 概要版. 姫路・町屋再生塾. (2021年7月)
- 中元孝迪(監修)『改訂増補 姫路城下古道界隈』姫路市教育委員会文化財課、2023年3月31日。
- “特別史跡姫路城跡 整備基本計画 保存管理と整備・活用の方針” (2011年). 2024年5月4日閲覧。
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外部リンク
[編集]- “文化財見学シリーズ2.『播州姫路の城下町』をたずねて”. 姫路市教育委員会文化財課 (1980年). 2024年5月1日閲覧。