高倉永孝
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 永禄3年(1560年) |
死没 | 慶長12年4月11日(1607年6月5日) |
改名 | 永孝→常専(法名) |
官位 | 正三位、権大納言 |
主君 | 正親町天皇→後陽成天皇 |
氏族 | 高倉家 |
父母 | 父:高倉永相、母:仏光寺法印の娘 |
兄弟 | 永孝、貞増、光澤、亮賢、女(正親町天皇勾当内侍)、女(後陽成天皇勾当内侍)、女(水無瀬氏成室)、女 |
妻 | 三条西実枝の娘 |
子 | 永慶、雅陳王、娘(織田左京大夫室) |
高倉 永孝(たかくら ながたか)は、戦国時代から江戸時代初期の公家。高倉家の第26代当主。官位は正三位・権大納言[1]。
生涯
[編集]永禄11年(1568年)10月、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、足利義栄派の公家は朝廷を追われ、永孝は父・永相と共に大坂寺内町へ下向した[2]。
天正4年(1576年)5月2日、父・永相やほかの公家とともに、妙覚寺に滞在中の織田信長のもとを訪れた[3]。