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高倉永孝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
高倉 永孝
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 永禄3年(1560年
死没 慶長12年4月11日1607年6月5日
改名 永孝→常専(法名)
官位 正三位権大納言
主君 正親町天皇後陽成天皇
氏族 高倉家
父母 父:高倉永相、母:仏光寺法印の娘
兄弟 永孝、貞増、光澤、亮賢、女(正親町天皇勾当内侍)、女(後陽成天皇勾当内侍)、女(水無瀬氏成室)、女
三条西実枝の娘
永慶雅陳王、娘(織田左京大夫室)
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高倉 永孝(たかくら ながたか)は、戦国時代から江戸時代初期の公家高倉家の第26代当主官位正三位大納言[1]

生涯

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永禄3年(1560年)、高倉永相の子として誕生。

永禄11年(1568年)10月、織田信長足利義昭を奉じて上洛すると、足利義栄派の公家は朝廷を追われ、永孝は父・永相と共に大坂寺内町へ下向した[2]

天正4年(1576年)5月2日、父・永相やほかの公家とともに、妙覚寺に滞在中の織田信長のもとを訪れた[3]

天正14年(1587年)12月24日、従三位となる[1]

慶長12年(1607年)4月11日、死去[1]

脚注

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  1. ^ a b c 公卿補任
  2. ^ 榎原 & 清水 2017, p. 389.
  3. ^ 『言経卿記』天正4年5月2日条、『兼見卿記』天正4年5月2日条

参考文献

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関連項目

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