高句麗五部
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高句麗五部(こうくりごぶ)は、高句麗において5つに編成された部族である。
歴史
[編集]『新唐書』「東夷伝」高麗伝によれば、以下の5つである。
- 内部(桂婁部、黄部とも)
- 北部(絶奴部、後部とも)
- 東部(順奴部、左部とも)
- 南部(灌奴部、前部とも)
- 西部(消奴部とも)
子孫
[編集]彼らは渡来人として日本へ渡った際も、日本の部民制における部(べ)と同様に部名を氏として名乗った。五部は上部・下部・前部・後部・東部とされ、音訓両方の読みが見られる。
- 前部(ぜんぶ)
- 天平宝字五年三月紀には「高麗人前部白君等六人(賜姓)御坂連、前部選理等三人杮井造、前部安人御坂造」また神護景雲元年紀に「左京人從七位上上部白麻呂賜姓廣篠連」とある。
- 後部(こうぶ、北部とも)
- 天武紀五年條に「後部主傳河于」、また宝亀七年五月紀に正六位上後部石島等六人賜姓出水連」とあり、また延暦八年五月紀に「信濃國筑摩郡人外少初位下後部牛養、無位宗守豐人等、賜姓田河(阿に作る)造」、延暦十八年十二月紀に「信濃國人外從六位下封瘻眞老、後部黑足、云々黑足等(賜)姓豐岡」などが見える。また、日本に帰化した高麗若光は別名を「玄武若光」といい、玄武は「黒・北」に通じるため、北部の末裔と考えられる[1]。
- 上部(かみべ)
- 天平十八年正月紀に「右京人上部乙麻呂」、東大寺奴婢帳・天平勝宝三年三月三日の奴婢見來帳に「河内国志紀郡林郷戸主上部古理、戸口上部白麻呂」、天平宝字五年紀に「上部君足等二人(賜姓)雄坂造」、延暦十八年十二月紀に「信濃國人小縣郡人无位上部豐人、上部色布知等言、己等先祖高麗人也、云々、文代等(賜)姓清岡、色布知(賜)姓玉井」などとある。
- 下部(しもべ)
- 延暦十八年十二月紀に「信濃國人下部文代等言、己等先高麗人也、云々、文代等(賜)姓清岡」とある。この「シモ」は「資母」「信茂」「征茂」「志母」などとも充て字された。地名でも大和国宇智郡や吉野郡の資母郷、河内国安宿郡資母郷、伊勢国河曲郡資母郷はじめ但馬、播磨、三河、甲斐などにみられる。これらの地名を背負う「シモ」氏の多くは帰化人で、中でも河内の大族が最大勢力であった。
- 東部(とうぶ)
- 弘仁二年八月紀に「山城國人正六位上東部黑麻呂、賜姓廣宗連」と見える。
- 西部(せいぶ)
- 背奈氏は西部の末裔と考えられ、『新撰姓氏録』では広開土王の末裔を称している[2]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 太田 亮 著、丹羽 基二 編『新編姓氏家系辞書』秋田書店、1991年。ISBN 978-4253002639。