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高柳直夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高柳たかやなぎ 直夫ただお
生誕 1878年5月4日
死没 (1904-05-03) 1904年5月3日(25歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1900年 - 1904年
最終階級 海軍少佐
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高柳 直夫(たかやなぎ ただお、1878年明治11年)5月4日[1] - 1904年明治37年)5月3日)は、日本海軍軍人第三回旅順港閉塞作戦で「江戸丸」指揮官を務め戦死した海軍少佐である。従六位勲五等功五級

生涯

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佐賀県出身。佐賀中学で2年間学び、知新館を経て[2]海軍兵学校26期を59名中11番で卒業した[3]。同期に小林躋造野村吉三郎水野広徳などがいる。1900年(明治33年)少尉任官。日露戦争開戦を迎え、防護巡洋艦秋津洲」砲術長として出征した。

高柳は第3回閉塞作戦に「江戸丸」 指揮官として参加する。「江戸丸」は「遠江丸」(本田親民少佐)、「釜山丸」 (大角岑生大尉)とともに第二小隊を構成し、中央左側に沈没させる予定であった[4]1904年5月2日林三子雄中佐を総指揮官とする12隻は閉塞に向かう。

旅順港閉塞作戦は地図上の「PORT ARTHUR」とあるPの位置付近の閉塞が目的であった

しかしこの日の風浪は激しく、林中佐は中止命令を発し反転した。「江戸丸」は林中佐が乗船する「新発田丸」に続行したが、中止命令は届いておらず、また反転せず旅順口に向かう他船を見て再反転し閉塞に向かった[5]。閉塞部隊は分裂状態となったが、「江戸丸」は「遠江丸」ら4隻と一団となる。


ロシア軍の激しい迎撃を受ける中、高柳は船橋で指揮を執り、目標地点に到達したとして投錨用意を命じた[4]。高柳は羅針盤で位置を確認しようとした際、腹部に被弾し戦死した[4]。指揮官附・永田武次郎中尉は指揮を承継し、「江戸丸」を爆破させ乗員と高柳の遺骸とともに端舟で脱出に成功。「江戸丸」の戦死者は高柳と一等機関兵武藤弥七の2名であった[4]。高柳の墓所は佐世保東山海軍墓地にある[6]

栄典

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出典

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  1. ^ 『海軍兵学校出身者戦死者芳影録』59頁
  2. ^ 『日露戦史名誉列伝』「林三子雄君他諸将列伝」
  3. ^ 『海軍兵学校沿革』
  4. ^ a b c d 『極秘 明治37.8年海戦史 第1部 戦紀 巻4』
  5. ^ 『日露戦争』(2)pp.323-324
  6. ^ 社団法人佐世保東山海軍墓地保存会2011年11月12日閲覧
  7. ^ 『官報』第4989号「叙任及辞令」1900年2月21日。
  8. ^ 『官報』第5539号「叙任及辞令」1901年12月18日。
  9. ^ 『官報』第6142号「叙任及辞令」1903年12月21日。

参考文献

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  • アジア歴史資料センター『極秘 明治37.8年海戦史 第1部 戦紀 巻4』「第2編 旅順口及ひ仁川の敵艦隊に対する作戦/第10章 旅順口第3回閉塞」(ref: C05110041500)
  • 池田清『日本の海軍』(上)朝日ソノラマ ISBN 4-257-17083-2
  • 井上秋剣編『日露戦史名誉列伝』駿々堂 1906年
  • 児島襄『日露戦争』(第2巻)文春文庫 ISBN 4-16-714147-7
  • 戸高一成監修『日本海軍士官総覧』柏書房
  • 明治百年史叢書第74巻『海軍兵学校沿革』原書房