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高橋安麻呂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
高橋 安麻呂
時代 奈良時代
生誕 不明
死没 不明
官位 従四位下右大弁
主君 元正天皇聖武天皇
氏族 高橋氏
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高橋 安麻呂(たかはし の やすまろ)は、奈良時代貴族官位従四位下・右大弁。

経歴

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養老2年(718年従五位下叙爵し、養老4年(720年宮内少輔に任ぜられる。

神亀元年(724年)2月聖武天皇の即位後に行われた叙位にて従五位上に昇叙される。同年3月に海道(太平洋沿岸地域)の蝦夷が反乱を起こして陸奥大掾佐伯児屋麻呂を殺害したことから[1]、4月に反乱鎮圧のための遠征軍を派遣することになり、持節大将軍藤原宇合に次いで安麻呂は副将軍に任ぜられる。反乱鎮圧はある程度の成果を収めたらしく、11月に遠征軍は帰京して[2]、翌神亀2年(725年)正月には遠征に従事した者に対する叙位・叙勲が行われ、安麻呂は正五位下勲五等に叙せられた。

天平4年(732年右中弁に任ぜられる。のち、美作守阿倍帯麻呂が何者かと共謀して4人を殺害したことから、被害者の一族が太政官に対して訴えを起こす。しかし、この訴訟を担当した右大弁・大伴道足、右中弁・高橋安麻呂ら6人は審理を行わず放置したことから、天平7年(735年)になって6人は怠慢の罪により処罰されることとなり全員これを承服するが、聖武天皇のによりいずれも赦免されている[3]

その後右大弁を務める一方で、天平9年(737年)正五位上、天平10年(738年)従四位下と昇進する。同年12月に大宰大弐に任ぜられ、同時に大宰少弐となった藤原広嗣と共に大宰府に下向した。この任官については、政権批判を強めていた式家閥の有力官人平城京から遠ざけるという、大納言橘諸兄の政権強化策の一環とする見方がある[4]。なお、藤原広嗣は2年後の天平12年(740年)に九州藤原広嗣の乱を起こして敗死しているが、乱における安麻呂の動静は明らかでない。

官歴

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続日本紀』による。

脚注

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  1. ^ 『続日本紀』神亀元年3月25日条
  2. ^ 『続日本紀』神亀元年11月29日条
  3. ^ 『続日本紀』天平7年9月28日条
  4. ^ 木本[2013: 248]
  5. ^ 『万葉集』巻6-1027

参考文献

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