高橋良 (陸軍軍人)
高橋 良 | |
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生誕 |
1886年12月26日 日本 長野県 |
死没 | 1974年11月9日(87歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1907年 - 1938年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
高橋 良(たかはし まこと[1]、1886年(明治19年)12月26日[2] - 1974年(昭和49年)11月9日[2])は、大日本帝国陸軍軍人、陸軍司政長官。最終階級は陸軍少将。功三級[1]。
経歴
[編集]長野県出身[2]。陸軍士官学校第19期卒業[2]。1917年(大正6年)8月、陸軍歩兵大尉に進級し[3]、1923年(大正12年)9月時点で歩兵第58連隊附の任にあった[3]。1924年(大正13年)8月、陸軍歩兵少佐に進級し[4]、1925年(大正14年)4月に歩兵第50連隊附となり、長野県師範学校に配属された[5]。1927年(昭和2年)3月に歩兵第50連隊大隊長に転じ[6]、1928年(昭和3年)8月に歩兵第28旅団副官(第14師団[7])に就任した[8]。1929年(昭和4年)8月、陸軍歩兵中佐進級と同時に歩兵第50連隊附となり[9]、1930年(昭和5年)8月に第14師団副官に就任した[10]。
1934年(昭和9年)8月、陸軍歩兵大佐進級と同時に水戸連隊区司令官に着任し[1]、1936年(昭和11年)3月に台湾歩兵第2連隊長(台湾守備隊司令部[2])に転じた[1]。日中戦争勃発後の1937年(昭和12年)9月7日、動員が下令され[1]、重藤支隊に配属されて上海方面に出動した[11]。同年11月26日に無錫で戦傷を負い[1]、1938年(昭和13年)7月に陸軍少将進級と同時に台湾軍司令部附となり[1][2]、8月20日に待命[2]、8月31日に予備役に編入された[2]。1942年(昭和13年)7月3日に陸軍司政長官に任ぜられ[2]、8月15日にブスキ州長官に就任した[12]。1945年(昭和20年)3月1日にはマラン州長官に転じ[13]、終戦までその任にあった[13]。
1974年(昭和49年)11月9日[2]、老衰のため死去[注釈 1]。
栄典
[編集]- 勲章等
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[15]
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g 外山 1981, 249頁.
- ^ a b c d e f g h i j 福川 2001, 428頁.
- ^ a b 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正12年9月1日調263頁
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正13年9月1日調260頁
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 大正15年9月1日調207頁
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和2年9月1日調200頁
- ^ 外山・森松 1987, 397頁.
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和3年9月1日調185頁
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和4年9月1日調173頁
- ^ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和5年9月1日調162頁
- ^ 外山・森松 1987, 480頁.
- ^ 秦 2001, 139頁.
- ^ a b 秦 2001, 140頁.
- ^ 『偕行』第284号、陸修偕行社、1975年1月、33頁。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
参考文献
[編集]- 秦郁彦 編『日本官僚制総合事典 : 1868-2000』東京大学出版会、2001年。ISBN 4130301217。
- 外山操・森松俊夫 編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。