高橋顕法
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宮城教育大学硬式野球部 監督 #50 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 宮城県仙台市長町 |
生年月日 | 1975年1月24日(49歳) |
身長 体重 |
189 cm 82 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1992年 ドラフト8位 |
初出場 | 1998年5月10日 |
最終出場 | 同上 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
監督・コーチ歴 | |
この表について
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高橋 顕法(たかはし あきのり、1975年1月24日[1] - )は、宮城県仙台市出身[1]の元プロ野球選手(投手)。現在は宮城教育大学硬式野球部監督[1]。
来歴・人物
[編集]大和小2年で野球を始める。蒲町中を経て仙台育英高校に進学する[1]。在学中、同校は春夏の甲子園に4回出場しているものの、高橋自身は肘や腰の故障のためにベンチ入りすら叶わず[1]、3年間で公式戦登板なしに終わる[1]。大学や社会人からも声はかからず、最後の手段として広島東洋カープの入団テストを受験したところ、合格[1][2]。1992年のプロ野球ドラフト会議で8位指名を受け入団[1]。全体の最後の78番目の指名だった。この時には契約金を辞退している。
3年間で二軍で通算0勝3敗、防御率9.79と結果を残せず、1995年に戦力外通告を受ける[1]。広島時代に指導を受けた古沢憲司の伝手で、阪神タイガースの入団テストを受験し合格[1]。移籍1年目には二軍のローテーション投手として6勝8敗1セーブ、防御率3.96と活躍し、ジュニアオールスターゲーム出場も果たす[1][2]。
1998年5月10日の対ヤクルトスワローズ7回戦で一軍初登板を果たすも、その年限りで阪神を退団[1]。任意引退選手となる[1][2]。引退後は家業のスポーツ店を継いだ[1]。その傍らで、小中学生のソフトボールなども指導していた[3]。
2012年5月8日、仙台六大学野球リーグに加盟する宮城教育大学硬式野球部のコーチに就任するため、日本野球機構から自由契約選手として公示された[4][5][6]。その後、監督に就任した[2]。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1998 | 阪神 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 5 | 1.0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 2.00 |
通算:1年 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 5 | 1.0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 2.00 |
記録
[編集]背番号
[編集]- 69 (1993年 - 1995年)
- 61 (1996年 - 1998年)
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n 村瀬秀信『ドラフト最下位』角川書店、2019年9月、8頁。
- ^ a b c d 久保田龍雄 (2020年12月19日). “草野球からプロ入りも…「その経歴でなぜ?」とざわついた過去のドラフト指名”. AERA dot. (アエラドット): p. 2 2020年12月22日閲覧。
- ^ “元プロ高橋専任コーチが采配/仙台6大学”. 日刊スポーツ. (2012年8月26日)
- ^ 2012年度 自由契約選手 - 日本野球機構公式サイトより
- ^ 元阪神・高橋氏が宮城教育大コーチに - スポーツ報知 2012年5月9日付ウェブ記事 [リンク切れ]
- ^ 引退から14年 元阪神高橋氏を自由契約 - 日刊スポーツ 2012年5月8日付ウェブ記事
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 高橋顕法 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)