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高田山惠助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高田山 惠助(たかだやま けいすけ、1917年3月25日[1] - 1983年12月7日[2])は、岩手県東磐井郡千厩町(現・一関市)出身[1]昭和時代の元大相撲力士白玉部屋芝田山部屋高田川部屋高砂部屋所属。本名は金野 恵助[1]。最高位は東十両8枚目[1]。得意技は右四つ、寄り。

経歴

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同郷の横綱宮城山が引退直後に部屋を興した白玉部屋(のち芝田山部屋)に入門。1931年5月場所に初土俵を踏んだ。当初の四股名は師匠が以前名乗った「岩手川」。幕下時代の1940年1月場所に「高田山」と改名した。1941年5月場所に十両に昇進[1]。この場所8勝7敗と勝ち越した。翌1942年1月場所には東十両8枚目まで番付を上げたが、右膝を捻挫して途中休場。幕下に陥落、その後は勝ち越すことなく1944年1月場所で廃業した[1]。十両陥落後の1943年に師匠の宮城山が死去、高田川部屋に移籍、更に高田川部屋の師匠も間もなく死去したため、高砂部屋に移籍した。

廃業後は帰郷し、酒造会社や工務店などに勤務し、地元の小学生に相撲を指導した[3]

1983年に66歳で死去した。

主な成績

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  • 通算成績:74勝83敗18休 勝率.471
  • 十両成績:11勝10敗9休 勝率.524
  • 現役在位:21場所
  • 十両在位:2場所

場所別成績

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高田山 惠助
春場所 三月場所 夏場所 秋場所
1931年
(昭和6年)
x x (前相撲) x
1932年
(昭和7年)
x x x x
1933年
(昭和8年)
x x x x
1934年
(昭和9年)
x x 西序二段20枚目
2–4 
x
1935年
(昭和10年)
東序二段22枚目
1–5 
x 東序二段30枚目
4–2 
x
1936年
(昭和11年)
西三段目32枚目
5–1 
x 東三段目7枚目
4–2 
x
1937年
(昭和12年)
東幕下25枚目
2–0–9 
x 東幕下21枚目
5–8 
x
1938年
(昭和13年)
東幕下31枚目
8–5 
x 東幕下15枚目
2–5 
x
1939年
(昭和14年)
西幕下27枚目
4–3 
x 東幕下16枚目
4–4 
x
1940年
(昭和15年)
西幕下15枚目
4–4 
x 西幕下7枚目
5–3 
x
1941年
(昭和16年)
東十両14枚目
8–7 
x 東十両8枚目
3–3–9[4] 
x
1942年
(昭和17年)
東幕下3枚目
3–5 
x 西幕下10枚目
2–6 
x
1943年
(昭和18年)
西幕下24枚目
2–6 
x 東幕下42枚目
3–5 
x
1944年
(昭和19年)
東幕下51枚目
引退
3–5–0
x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

改名歴

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  • 岩手川(いわてがわ)1931年5月場所 - 1939年5月場所
  • 高田山 惠輔(たかだやま けいすけ)1940年1月場所 - 1941年1月場所
  • 高田山 惠助(たかだやま けいすけ)1941年5月場所 - 1944年1月場所

参考文献

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  • 『馬っこの里・せんまや・むかしいま』千厩青年商工クラブ、1984年。一関市立千厩図書館所蔵。
  • 小池謙二『大相撲星取大鑑』昭和編第1巻、医聖社、1986年。

脚注

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  1. ^ a b c d e f 『大相撲星取大鑑』178頁。
  2. ^ 岩手県一関市千厩町せんまや街角資料館展示資料による。
  3. ^ 『馬っこの里・せんまや・むかしいま』25頁。
  4. ^ 右膝関節捻挫により6日目から途中休場

関連項目

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