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高田義一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高田義一郎
高田義一郎、1931年頃
誕生 (1886年-06-28) 1886年6月28日
滋賀県草津村
(後の草津町、現・草津市
死没 (1945-06-14) 1945年6月14日(58歳没)
長野県諏訪市
職業 医師随筆家
最終学歴 京都帝国大学医学部
ジャンル 解剖学、探偵小説、随筆
ウィキポータル 文学
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高田 義一郎(たかた ぎいちろう、1886年(明治19年)6月28日-1945年(昭和20年)6月14日)は、医学博士文筆家。主に性欲・犯罪に関する著作で知られる[1]

略歴

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1886年明治19年)、滋賀県栗太郡草津村東海道草津宿の名門6代目高田茂徳の長男として生まれる。

茂徳の放蕩癖により家財を使い果たした一家は草津を追われ北海道、京都、東京と転居を繰り返す。貧困にあったが親戚である実業家浜岡光哲の援助をうけ医学の道に進んだ。

旧制第三高等学校卒業後、京都帝国大学医学部に学び同校法医学教室助手となる。

1919年大正8年)、千葉医学専門学校の教授に就く。1922年(大正11年)から1年あまり文部省在外研究生として独伊英に留学。その後、東京溜池に日本初といわれた小児科医院を開設[2]。同時期保険会社医長も勤める。

医学博士の立場から医学関連書を発表する一方で、性科学犯罪科学をテーマとしたユーモア・エッセイ、SF怪奇小説を当時の人気雑誌『新青年』に発表するなど文筆家としても活躍した。

1924年(大正13年)、筆禍により千葉医科大教授職を辞任。

1930年昭和5年)、国立大学町(国立市)移住後は東京商科大学[3]滝乃川学園[4]で校医を勤めながら執筆に専念した。

1945年の高田の没後、未亡人(二人目の妻)の高田嘉代は、広大な自宅や敷地内に他人を間借りさせ、またいくつかの文藝同人誌に参加しながら特異な生活を送り、1991年に死去[5]

2015年3月、国立市にあった高田義一郎邸の取り壊しが決まり、さよならイベントが開催された。これまで語られてこなかった高田義一郎の生涯とその業績がはじめて公開されることとなり10日間で3,000の来客を集めた。

家族

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  • 実父・高田儀助[1]
  • 養父・高田茂是[1]
  • 義妹・章子 ‐ 茂是の娘。浜岡光哲の後妻[6]
  • 妻・嘉代(1903年生) ‐ 長野・飯田寛治の妹[1]

著作

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高田義一郎邸。1930年築、2015年解体。(東京都国立市)

脚注

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  1. ^ a b c d 高田義一郎『人事興信録 第13版下』1941
  2. ^ 東京朝日新聞 1924年8月7日東京朝刊7頁
  3. ^ 商大の校医をしていたのは昭和5年6月から17年3月31日迄。 商大が発行している一橋新聞には義一郎の記事と執筆が残っている。一橋新聞復刻版(不二出版)見出しより。「医博で文人の高田さん本学学医を快諾隣人としての好意から」 「随筆 秀吉と家康の子供」「随筆 銷夏漫筆」「二重人格の世界-高田義一郎博士語る」「随筆 平生文相と漢字問題」「学生と性欲生活」。
  4. ^ 滝乃川学園の校医をしていたのは昭和13年から16年迄。 学園の顧問、診療部管理者として週二回通っていた。当時はこの地域の医療もなっていたので学園内だけでなく地域住民の診療もした。義一郎の給料は百五十円。学園の保母さんが十円、職員が五十円なので三倍であった。創設者石井亮一の妻で二代目園長「知的障害者教育・福祉の母」と呼ばれる石井筆子に「いつまでもいてもらいたい」と雇われるものの学園の財政難から三年余りで辞めることになる。同学園には高田義一郎の履歴書が残っている
  5. ^ 大森光章『続たそがれの挽歌』菁柿堂
  6. ^ 浜岡光哲翁七十七年史 西川正治郎 浜岡翁表彰会 1929

参考文献

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外部リンク

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