魏驥

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魏 驥(ぎ き、洪武9年(1374年)- 成化7年9月20日1471年10月3日))は、明代官僚は仲房、は南斎。本貫紹興府蕭山県

生涯[編集]

魏希哲の子として生まれた。永楽4年(1406年)、進士乙榜に及第し、松江府訓導に任じられた。いつも夜分に茶粥を携えて諸生を労ったので、諸生も発奮して学問成就させる者が多かった。魏驥は南京に召し出されて『永楽大典』の編纂に参加した。書が完成すると、魏驥は松江府に帰任した。永楽17年(1419年)、吏部尚書の師逵の推薦により、太常寺博士に転じた。

宣徳元年(1426年)、魏驥は吏部考功員外郎に任じられた。宣徳7年(1433年)、南京太常寺少卿に転じた[1]正統3年(1438年)、北京に召し出されて行在吏部左侍郎として試用された。正統4年(1439年)、正式に吏部左侍郎に任じられた。たびたび北京近郊の蝗害の跡を巡視し、民衆の困苦を訊ねてまわった。正統8年(1443年)、礼部左侍郎に転じた。まもなく老齢を理由に致仕を願い出た。吏部尚書の王直が魏驥はまだ衰えていないが、その老齢に配慮して、忙しい仕事から落ち着いた仕事に移すべきであると言上した。そこで魏驥は南京吏部左侍郎に転じた。再び老齢を理由に致仕を願い出たが、許可されなかった。正統年間、王振英宗の寵信をたのみに公卿をしのぐ権勢を振るったが、ひとり魏驥を重んじて、「先生」と呼んだ。正統14年(1449年)、魏驥は南京吏部尚書に進んだ。土木の変により英宗が北方に連行されると、魏驥は諸官を率いて当世の急務を箇条書きで上書し、その多くは施行された。景泰元年(1450年)、魏驥はようやく引退が許可されて致仕した。

魏驥は故郷の蕭山の家に寓居したが、蕭山に水害の多いのを心配して、螺山・石巌・畢公の堤防と堰を修築するよう提唱した。成化7年9月己丑(1471年10月3日)、死去。享年は98。は文靖といった。著書に『南斎前後集』20巻・『魏文靖摘稿』10巻[2]があった。

子に魏完があった。

脚注[編集]

  1. ^ 談遷国榷』巻22
  2. ^ 黄虞稷『千頃堂書目』巻18

参考文献[編集]

  • 明史』巻158 列伝第46
  • 吏部尚書文靖魏公墓誌銘(徐紘『明名臣琬琰録』巻9所収)