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孝宗 (朝鮮王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鳳林大君から転送)
孝宗 李淏
李朝
第17代国王
王朝 李朝
在位期間 1649年6月17日-1659年6月23日
静淵(チョンヨン、정연
諡号 文章武神聖顕仁明義正徳大王
忠宣王(清国による)[1][2]
廟号 孝宗
生年 万暦47年5月22日
1619年7月3日
没年 順治16年5月4日
1659年6月23日
仁祖
仁烈王后
王后・王配 仁宣王后張氏
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孝宗(ヒョジョン、こうそう、1619年7月3日 - 1659年6月23日)は、李氏朝鮮の第17代国王(在位:1649年 - 1659年)。は淏(ホ、)。即位前は鳳林大君(ポンリムデグン、ほうりんだいくん)だった。号は竹梧(チュゴ、ちくご、죽오)。

概要

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父・仁祖の皇帝ホンタイジに跪いて臣下の礼を取らされた恥辱を雪ぐべく、即位後は清を討伐(北伐計劃)するために軍備拡充に努めた。その軍事力(特に銃砲等の火力)を清に買われ、黒竜江を超えて南下していたロシア勢力の討伐を行う清軍に1654年と1658年の2回軍勢を参加(羅禅征伐)させられている。

から贈られた諡号は、「忠宣王」である[2]。諡号に「忠誠の忠」の文字を使用しており、朝鮮国王は従順であって欲しいという清の希望を読み取れるが、この諡号は、治世中の公式記録から徹底して取り除かれており、『朝鮮王朝実録』、朝鮮国王の行状、『陵誌文』といったほとんど全ての公式記録から取り除かれ、外交文書以外にはほとんど使用されなかった。『朝鮮王朝実録』は、清から諡号を授かった事実を記録するのみで贈られた諡号を記録していない。その理由は、「夷狄」とみなした清からの諡号を恥辱に感じていたからであり、表向きは清に対して朝貢冊封事大をおこない、恭順の姿勢を装うが、清に対する反発が拭い難く根付いていた[2]

家系

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登場作品

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映画
テレビドラマ

関連項目

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出典

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  1. ^ “조선 후기 왕들, 청나라로부터 받은 시호 철저히 숨겼다”. 朝鮮日報. (2007年9月11日). オリジナルの2013年10月13日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131013094349/https://www.chosun.com/site/data/html_dir/2007/09/11/2007091100074.html 
  2. ^ a b c “清の諡号を隠した朝鮮後期の国王たち”. 朝鮮日報. (2007年9月16日). オリジナルの2007年10月9日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20071009174825/http://www.chosunonline.com/article/20070916000002 
  3. ^ 「上下敎政院, 錦林君女子之喪, 令該曹優給喪需. 孝宗朝, 淸國九王, 欲與我國結婚, 遣使要得公主, 孝宗重違其意, 選宗室錦林君愷胤女, 稱以義順公主, 送與九王.」朝鮮王朝実録 顕宗実録5巻、顕宗3年8月18日 戊午2回目
先代:
仁祖
李氏朝鮮国王
第17代:1649年 - 1659年
次代:
顕宗