鳴門義民
晩年の鳴門義民 | |
人物情報 | |
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別名 | 阿波屋次郎吉 |
生誕 |
佐々次郎 天保6年7月15日(1835年8月9日) 阿波国美馬郡重清村東原(徳島県美馬市美馬町中東原) |
死没 |
1913年(大正2年)11月8日 東京府豊多摩郡渋谷町(東京都渋谷区) |
国籍 | 大日本帝国 |
出身校 | 神奈川表英学社 |
両親 | 佐々治藤太 |
子供 | 鳴門義次 |
学問 | |
研究分野 | 英学、応用昆虫学 |
研究機関 | 大蔵省勧農寮、内務省勧農局、農商務省農務局 |
指導教員 | 大木忠益、サミュエル・ロビンス・ブラウン、ジェームス・カーティス・ヘボン、ジェームズ・バラ、デイヴィッド・トンプソン |
主な指導学生 | 磯辺弥一郎 |
主な業績 | メイガの駆除 |
主要な作品 | 『独逸農事図解』 |
影響を与えた人物 | 益田素平 |
鳴門 義民(なると よしたみ)は明治時代の英学者、農政官僚。阿波国美馬郡出身。江戸で大木忠益に蘭学、横浜で外国人に英語を学び、神奈川奉行所に勤務した。東京に英学塾を開いた後、農業行政に転じ、全国でメイガの駆除法を指導した。晩年芝区会議員。
生涯
[編集]横浜への遊学
[編集]天保4年(1833年)または天保6年(1835年)7月15日[1]阿波国美馬郡重清村東原(現徳島県美馬市美馬町中東原)に佐々治藤太の次男として生まれた[2]。幼名は次郎、後に次郎吉[2]。
佐々家口伝によれば[2]、厳格な継父の教育に耐えかねて家出を決意し、草鞋製作により800文を蓄え、12歳の時吉野川岸に着物と下駄を置いて投身自殺を偽装し、家出を決行した。徳島からは金刀比羅宮参詣者に変装して無賃で大坂に渡り、呉服屋・大工・武家に奉公して旅費を貯めた後、横浜に上り、中浜万次郎出入りの米屋に住み込みで働き、毎日単語カードを譲り受けて英語を学んだという[3]。
安政元年(1854年)頃芝浜松町大木忠益に入門し、大鳥圭介・加藤弘之・子安峻・橋本綱三郎・宮内広・中村正直等と蘭学を学んだ[2]。
万延元年(1860年)横浜に出て、サミュエル・ロビンス・ブラウンに英文法、ジェームス・カーティス・ヘボンに世界地理、ジェームズ・バラに初級英語、デイヴィッド・トンプソンに数学を学んだ[4]。文久2年(1862年)3月神奈川奉行所に召し抱えられ、神奈川表英学社で英学を学んだ[4]。慶応2年(1866年)12月通弁・翻訳御用となり、徳島藩石川権五郎等に英学を教え、イギリス士官との航海術の問答を通訳した[4]。
東京での英学塾経営
[編集]明治維新後、東京府尾張町二丁目(現中央区銀座六丁目)に阿波屋を開業し[5]、外国雑貨を商った[6]。苗字制定の際に「鳴門」を姓とした。
明治2年(1869年)8月1日芝露月町(現港区東新橋二丁目)に英学・通弁教諭所を開業し、明治3年(1870年)8月17日『易経』繋辞上伝「其利断金」「其臭如蘭」に依り金蘭社と号した[7]。家塾は成功して100名以上の生徒を抱え[8]、明治4年(1871年)10月には薬研堀町(現中央区東日本橋二丁目)島村元琳宅に分塾鳴門社(鳴門塾)を開き、1876年(明治9年)頃鳴門義民英学所と改称[9]、1880年(明治13年)1月17日簿記学科を開講した[10]。
農政への転身
[編集]明治4年(1871年)頃大蔵省勧農寮に出仕し、明治5年(1872年)頃塾を校主代理・塾長に任せて大阪に移り、農書の翻訳・編纂に当たった[11]。
1875年(明治8年)5月島邨泰の開農義会社員となり、『開農雑報』に活発に寄稿したほか[12]、波東農社合併社員として茨城県鹿島郡の開墾事業に出資した[13]。1881年(明治14年)大日本農会創立時に常置議員・農芸委員(虫学科)となった[14]。
1877年(明治10年)5月から10月まで勧農局の命で青森県津軽郡に出張し、藁の焼却、誘蛾灯による駆除、虫の付いた稲茎の焼却、肥料への塩分添加を指導し、岩館村の試験田で薬剤試験を行った[15]。これが政府による虫害調査の初めとされる[16]。
同年福岡県益田素平等からも螟害の問い合わせがあり、1878年(明治11年)赴任し、青森県のものが二化性であるのに対し、福岡県のものは三化性で別種と判明[17](後にニカメイチュウ・サンカメイチュウと命名)[18]、5月長崎県[19]、11月熊本県で青森県と同様の駆除法を通達した[20]。
1880年(明治13年)駒場農学校植医科教師となり[6]、農書の出版や全国農談会での講演を行い、短冊苗代を奨励した[21]。1881年(明治14年)6月栃木県、1882年(明治15年)5月東京府下板橋宿、1883年(明治16年)9月下総、10月神奈川県でも虫害調査・駆除法指導を行い、『農事月報』で逐次報告した[22]。
晩年
[編集]明治20年代初めには非職となり[21]、1889年(明治22年)11月から1892年(明治25年)11月まで第1期芝区会議員を務めた[23]。1889年(明治22年)本芝四丁目海岸に鉱泉が発見され、土地借用を出願したが、他の出願者と係争になり、後に木村荘平の個人事業として開発された[24]。
明治末期深川区、更に渋谷町に転居した[25]。1913年(大正2年)11月8日死去し、青山霊園に葬られた[25]。
経歴
[編集]- 文久2年(1862年)3月 神奈川御役所附下番[4]
- 元治元年(1864年)10月 神奈川奉行支配上番格下番[4]
- 慶応2年(1866年)12月 同支配上番格[4]
- 慶応3年(1867年)7月 同支配同心格[4]
- 明治4年(1871年)8月 大蔵省勧農権中属[26]
- 明治5年(1872年)10月頃 同省租税寮勧農課[11]
- 明治7年(1874年)3月 内務省勧業寮農務課農学掛[11]
- 明治8年(1875年)9月 同省勧業寮第三課[11]
- 明治10年(1877年)1月 同省勧農局五等属[21]
- 明治15年(1882年) 農商務省農務局四等属[21]
- 明治20年(1887年) 同省総務局判任三等属[21]
著書
[編集]- 1875年(明治8年)『独逸農事図解』(ファン・カステール訳、平野栄共校)
- 1881年(明治14年)『害虫図解説』(第2回内国勧業博覧会出展)[27]
- 1882年(明治15年)『哥氏田圃虫書』[28](ジョン・カーティス Farm Insects[29]翻訳)[21]
生徒
[編集]家族
[編集]- 父:佐々治藤太 - 槍術指南[1]。
- 母:熊 - 享和3年(1803年)1月15日生。1884年(明治17年)上京して同居[25]。
- 兄:佐々寿京 - 文政9年(1826年)2月29日生。学区世話方、伍長、村会議員[25]。関口新心流柔術免許皆伝[2]。1911年(明治44年)8月13日没[25]。
- 甥:鳴門半三 - 万延元年(1860年)12月21日生。寿京次男[30]。鳴門塾生[31]。欧文書院で英語を教えた後、神戸税関署長[30]。
- 長男:鳴門義次 - 海軍軍医少佐。1933年没。享年70[21]。
- 長男妻:せん
- 娘:美須[21]
- 娘:慶[21]
- 娘:英[21]
- 孫:正夫 義次の子
- 子孫:川瀬金次郎[32]
脚注
[編集]- ^ a b 橋本 1942, p. 137.
- ^ a b c d e 佐光 1990, p. 116.
- ^ 橋本 1942, pp. 137–138.
- ^ a b c d e f g 佐光 1990, p. 117.
- ^ 佐光 1990, pp. 118–119.
- ^ a b 橋本 1942, p. 139.
- ^ 佐光 1990, p. 119.
- ^ 佐光 1990, p. 125.
- ^ 佐光 1990, pp. 120–123.
- ^ 佐光 1990, p. 126.
- ^ a b c d 佐光 1990, p. 127.
- ^ 友田 2004, pp. 17–19.
- ^ 木戸田 1962, pp. 45–46.
- ^ 友田 2004, p. 23.
- ^ 小岩 1987, pp. 5–10, 14–15.
- ^ 村田 1935, p. 182.
- ^ 村田 1935, pp. 182–185.
- ^ 村田 1935, pp. 191–192.
- ^ 村田 1935, pp. 185–187.
- ^ 小岩 1987, p. 16.
- ^ a b c d e f g h i j 佐光 1990, p. 128.
- ^ 佐光 1990, pp. 127–128.
- ^ 芝区 1938, p. 444.
- ^ 小川, 2012 & pp-19-23.
- ^ a b c d e 佐光 1990, p. 129.
- ^ 勧農寮 - 官員全書その2 明治壬申5月
- ^ NDLJP:838148
- ^ NDLJP:838900
- ^ Farm Insects - Google ブックス
- ^ a b c 佐光 1990, p. 130.
- ^ 佐光 1990, p. 122.
- ^ 佐光 1990, p. 131.
参考文献
[編集]- 橋本亀一『阿波今昔物語』橋本亀一、1942年10月。NDLJP:1042224/83
- 佐光昭二「鳴門義民・その人と業績」『英学史研究』第1991巻第23号、日本英学史学会、1990年、115-131頁、doi:10.5024/jeigakushi.1991.115、ISSN 0386-9490、NAID 130003624859。
- 村田藤七「明治年間に於ける螟蟲に關する研究及び驅除豫防法の變遷」『昆蟲』第9巻第4号、東京昆蟲學會、1935年、181-203頁、NAID 110003486737。
- 小岩信竹「明治前期の青森県における螟虫対策の展開 ―後進県での稲作技術改良の一局面―」『弘前大学経済研究』第10号、弘前大学経済学会、1987年9月。
- 友田清彦「開農義会と『開農雑報』 : 明治初期の農業結社とその人々」『農業経済研究』第76巻第1号、日本農業経済学会、2004年、16-24頁、doi:10.11472/nokei.76.16、ISSN 0387-3234、NAID 130004709958。
- 木戸田四郎「明治前期における士族開墾の一例--波東農社の開拓事業」『茨城大学文理学部紀要. 社会科学』第12号、1962年1月、35-92頁、NAID 120005513833。
- 『芝区誌』東京市芝区役所、1938年3月 。
- 小川功「明治期東京ベイ・スパ・リゾートへの投資リスク : "奇傑"木村荘平による大規模観光経営・芝浦鉱泉旅館の興亡を中心に」『跡見学園女子大学マネジメント学部紀要』第13号、跡見学園女子大学、2012年3月、15-36頁、ISSN 1348-1118、NAID 110009526257。