黄朝琴
黃朝琴 | |
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臺北市(省轄市)第1任市長 | |
任期 1945年11月1日 – 1946年3月1日 | |
前任者 | 首任 |
後任者 | 游彌堅 |
中華民国第1屆臺灣省參議、臨時議會、省議會議長 | |
任期 1946年2月28日 – 1963年6月1日 | |
前任者 | 首任 |
後任者 | 謝東閔 |
個人情報 | |
生誕 | 1897年10月25日 Template:TWN-JPN嘉義縣鹽水港辦務署(今臺南市鹽水區) |
死没 | 1972年7月5日 (74歳没) 台湾臺北市城中區台大醫院 |
国籍 | Template:JPN-EMP(1897年-1945年) 中華民国(1945年-1972年) |
政党 | 中国国民党 |
親 | 父:黃宗海 |
黄朝琴は台湾嘉義県鹽水港(現在の台南市鹽水区)出身の政治家。 妹は日本統治時代の台南で有名な詩人、黄金川。 日本留学後、米国で国際法を学び、修了後は中華民国に渡り、南京国民政府外交部に勤務。 省議会議長、国民党中央委員等を歴任し、台湾省議会を20年近く主宰した。連震東、黃國書、林頂立らとともに1950年代の台湾政治を代表する「半山」の一人である。 東京やアメリカへの留学を経て政治学に親しみ、国民党の台湾統治の仲介役を務めた。
出生から日本留学
[編集]1897年10月25日、台湾嘉義県鹽水港の裕福な家庭に生まれた。祖父の黃錦興は清時代末に製糖業で多くの土地を所有していた。父親の黄宗海も馬や種花の会社を経営していた。
1914年に鹽水公学校で学び、1907年に祖父と父親は死去。その時わずか10歳であった。公学校卒業後、彰化公学校の実業科に進学するが、家督を継ぐために帰郷。その後、日本大阪大丸の代理店業や、倉庫業を営んだ。のちの彼の回顧録によると、学歴の至らなさや、日本人の台湾人への差別を目の当たりにし、東京で学ぶことを志した。
1916年、東京に着いた黄は、東京正則英語学校と数学館に入学し、半年の勉強ののち日本の中学3年に編入した。
1920年、早稲田大学政治経済科へ入学。台湾籍学生の組織する「瀛士会」に入り、台湾での日本統治の政治について討論した。1920年7月16日、「台湾青年」を創刊。1922年に、中国駐日公使館で知り合った郭佩雲と結婚した。
1923年2月、有名な「漢文改革論」を発表。1923年4月に台湾民報が創刊されると、編集や記事の執筆などを行った。台湾民報の台湾への輸入を図るため、林呈祿や黃呈聰らと当時の台湾総督田健治郎に交渉した。1923年春に早稲田大学を卒業。
アメリカ留学から国民政府外交官へ
[編集]1923年9月、夫婦共にイリノイ大学に入学。黄は政治科へ妻は英語とヨーロッパ史を研究した。在学中、「中華政局概観」を発表した。1925年、在学中に中国国民党に加入。1926年に政治学で修士の学位を取得。
卒業後、上海へ向かい『日本統治下之臺灣』の出版を試みるも、日本政府の反感を引き起こし失敗。1928年、南洋での任務の道中にて『中華民族海外之發展』を執筆。1935年、サンフランシスコ領事に任命。日本と中国の貿易船の衝突事件を記録した『廣源輪案』を執筆。
戦後の帰台と晩年
[編集]台湾への帰国後、1945年に戦後初の台北市長に就任。1946年、台湾省参議会が設立され、陳儀の支持のもと、名声のあった林獻堂は不名誉な引退をした。 黄朝琴と李萬居を議長に、連震東を元老院秘書長に据え、「半山」派は台湾の言論機関を独占した。 黄朝琴は第1、2、3臨時省議会と第1、2省議会の議長を17年間務めた。
1947年、台湾第一銀行頭取に就任し、台湾銀行常務取締役、第五回国連総会中華民国代表を歴任。 二・二八事件の際には、二・二八事件台北委員会連絡班の班長を務めた。 1963年、省議会を退任。1972年7月5日、肝臓がんで死去。 享年76歳。
著書
[編集]- 『漢文改革論』1923年
- 『日本統治下之臺灣』1927年
- 『中華民族海外之發展』1928年
- 『廣源輪案』(中、英文)1935年
- 『我的回憶』1981年
参考文献
[編集]- ^ 臺灣近代名人誌-第一冊. 自立晚報. (1987)