黄虎林
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黄虎林 | |
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1943年〜1945年頃 | |
生誕 | 1909年 |
死没 | 1978年 |
所属組織 |
赤軍 朝鮮人民軍 |
最終階級 |
大尉(ソ連軍) 大佐(北朝鮮軍) |
黄 虎林(ファン・ホリム、황호림)は、ソ連及び北朝鮮の軍人。ロシア名はアレクサンドル・グリゴリエヴィチ・フヴァン(Александр Григорьевич Хван)。高麗人。
経歴
[編集]1909年、沿海州に生まれる。1933年、赤軍に召集。1937年にレニングラード州工兵学校を卒業。1937年11月、独立工兵大隊技術半中隊長。1938年4月、第132連隊小隊長。1939年10月、第259工兵大隊軍事学校校長。1940年5月、工兵教官。1941年3月、第615連隊工兵部長。同年6月、第47予備連隊工兵部長。1942年4月、第5予備連隊予備員。同年5月、第12予備工兵連隊予備員。同年10月、第12独立予備浮橋大隊副大隊長。1943年4月、サラトフ軍歩兵学校工兵教官。1945年4月、第1ベラルーシ戦線第1親衛戦車軍第8機械化師団第21機械化旅団工兵中隊長としてベルリンの戦いに参加。
1946年11月、プリモルスキー軍管区第25軍に配属。平壌でソ連軍事顧問団長スミルノフ少将の通訳として勤務。 1946年、保安幹部訓練大隊工兵部長。司令部では、スターリングラード攻防戦に参加したただ1人の朝鮮人として知られていた[1]が、実際には16人がスターリングラード戦闘に参加しており[2]、黄は参加していなかった。
のちに初代作戦局長[3]、副総参謀長[4][5]を歴任。 自分より低い位置にいた姜健が総参謀長であったのに不満を持ち、姜健と争って追放されることになった[6]。1948年、ソ連へ帰国し、ウズベク・ソビエト社会主義共和国のコルホーズにある学校の軍事指導員。のちにウクライナへ転任。
人物
[編集]- 朱栄福によれば、非常に怒りっぽく、かつ神経質で、ひどく威張り散らしていたという[1]。また副総参謀長在任時には司令部の何処にでも現れ、誰かを捕まえては「ボタンが外れている」「長靴が汚れている」など細かいことばかり言って皆から嫌われていたという[7]。
- アメリカ情報部の情報資料ファイルによれば、字の読み書きができなかったが、彼の優れた指導力、力強い性格、ソ連の支援によって北朝鮮での地位を得た[8]。ロシア語は流暢に話せたが、朝鮮語は非常に苦手だった[8]。
勲章
[編集]- 赤星勲章 - 1945年
- 戦功記章 - 1946年
- ベルリン攻略記章
- 1941年-1945年大祖国戦争における対ドイツ戦勝記章
注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b 朱 1992, p. 57.
- ^ Шин, Пак & Цой 2011, p. 33.
- ^ “6ㆍ25때 북한군 작전국장/유성철 “나의 증언”:8” (朝鮮語). 韓国日報. (1990年11月7日) 2019年1月17日閲覧。
- ^ 赤木 2003, p. 23.
- ^ 朱 1992, p. 77.
- ^ 赤木 2003, p. 40.
- ^ 朱 1992, p. 92.
- ^ a b “RG 319, Assistant Chief of Staff, G-2 (Intelligence), Entry # 1004H (UD), ID 950054: ATIS-FEC Interrogation Report, Box No. 337, 950054 KG 1401-KG 1425, 3-13 Dec. 52, etc. (2 of 2)” (韓国語). 국사편찬위원회 전자사료관. 2019年5月15日閲覧。107コマ
参考文献
[編集]- 赤木完爾 編『朝鮮戦争 休戦50周年の検証・半島の内と外から』慶應義塾大学出版会、2003年。ISBN 4-7664-1038-6。
- 朱栄福『朝鮮戦争の真実 元人民軍工兵将校の手記』悠思社、1992年。ISBN 4-946424-35-0。
- Д.В. Шин Б.Д. Пак В.В. Цой. “СОВЕТСКИЕ КОРЕЙЦЫ на фронтах Великой Отечественной войны 1941–1945 гг” (PDF). ロシア科学アカデミー東洋学研究所. p. 516-520. 2018年12月31日閲覧。
外部リンク
[編集]- “ХВАН Александр Григорьевич” (ロシア語). CIS高麗人情報ポータル. 2015年5月23日閲覧。