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黒木剛一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

黒木剛一(くろき ごういち、1894年(明治27年)2月16日 - 1972年(昭和47年)5月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将

経歴

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1892年10月8日、宮崎県宮崎郡宮崎町(現在の宮崎市)に生まれる。旧制宮崎県立宮崎中学校を経て、海軍兵学校第43期に成績順位100名中第6位で入学。1915年12月16日、成績順位96名中第40位で卒業。

1938年12月15日京城在勤海軍駐在武官朝鮮総督府御用掛嘱託。1940年8月1日、兼京城監理長。1941年12月、太平洋戦争開始。

1942年6月25日、海軍軍令部出仕。7月15日海南警備府附。7月20日第16警備隊司令1943年(昭和18年)9月10日、横須賀鎮守府附。10月1日第1南遣艦隊司令部附。10月15日、海軍軍令部兼海軍省出仕兼海軍省艦政本部造船造兵監督官フランス領インドシナ特命全権大使随員。軍令部作戦部長中澤佑少将によれば、黒木は航空本部教育部長の有馬正文とともに必死戦法の反対意見を述べたという[1]

1944年(昭和19年)10月5日、任海軍少将。1945年2月20日、海軍軍令部出仕兼フランス領インドシナ特命全権大使随員。3月6日、海軍軍令部出仕。6月1日樺太庁豊原地方在勤駐在海軍武官。8月9日、兼第12航空艦隊司令部附。1945年8月、終戦。樺太の戦いが発生すると、樺太住民の保護活動に従事した。停戦後、ソ連占領軍による武装解除を受け、シベリアに抑留された。抑留中に小林謙五海軍中将が病死した為に、以後は海軍軍人代表者として行動し、約11年後に帰国を果たした。

1956年(昭和31年)8月19日、復員。1972年(昭和47年)5月21日、死去。享年78。

年譜

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脚注

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  1. ^ 『海軍中将中澤佑』原書房157頁
  2. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十三年三月三十一日 仮指定者」106頁。

参考文献

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関連項目

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