黒龍丸
黒龍丸 | |
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基本情報 | |
船種 | 貨客船 |
クラス | 黒龍丸級貨客船 |
船籍 | 大日本帝国 |
所有者 | 大阪商船 |
運用者 | 大阪商船 |
建造所 | 三菱重工業長崎造船所 |
母港 | 大阪港/大阪府 |
姉妹船 | 鴨緑丸 |
信号符字 | JSFL |
IMO番号 | 43451(※船舶番号) |
建造期間 | 315日 |
就航期間 | 2,642日 |
経歴 | |
起工 | 1936年9月19日 |
進水 | 1937年2月14日 |
竣工 | 1937年7月31日[1] |
就航 | 1937年8月14日 |
最後 | 1944年10月24日 被雷沈没 |
要目 | |
総トン数 | 7,369トン |
純トン数 | 4,078トン |
載貨重量 | 4,182トン |
排水量 | 9,620トン |
登録長 | 129.80m |
型幅 | 17.4m |
登録深さ | 10.15m |
高さ |
27.43m(水面からマスト最上端まで) 7.01m(水面から船橋最上端まで) 17.98m(水面から煙突最上端まで) |
ボイラー | 水管式石炭専燃缶 3基 |
主機関 | 三菱ツェリー衝動式蒸気タービン機関 2基 |
推進器 | 2軸 |
最大出力 | 4,694馬力 |
定格出力 | 4,000馬力 |
最大速力 | 18.3ノット |
航海速力 | 16.0ノット |
旅客定員 |
一等:45名 二等:138名 三等:669名 |
乗組員 | 148名 |
原則として出典は『昭和十八年版 日本汽船名簿』[2] 高さは米海軍識別表[3]より(フィート表記) |
黒龍丸(こくりゅうまる)は、大阪商船が所有していた、大阪港・大連港連絡航路の貨客船。当時最新の機関を備えた高速船として1937年に建造された。太平洋戦争後期の1944年10月にアメリカ海軍の潜水艦により撃沈された。なお、大連汽船も同名の貨物船「黒龍丸」(6,112総トン)を同時期に運航しているが、異なる船である。
建造
[編集]大阪商船は命令航路として大阪・大連航路の貨客船を運航していた。1930年代に船舶改善助成施設など政府の補助金交付による新型商船の建造が進む中、大阪商船は、助成対象船以外にも独自の船質改善を図ることにした[4]。そのうち、満州国建国などで需要が高まっている大連航路増強のために計画されたのが、「黒龍丸」と「鴨緑丸」から成る黒龍丸級貨客船である。
黒龍丸級は、1935年(昭和10年)に同じ大連航路へ就航したばかりの吉林丸級貨客船をさらに改良したもので、基本設計は「ばいかる丸」以来「うらる丸」などの大連航路船の流れをくむ蒸気タービン推進の高速貨客船である。主任設計者は他の大阪商船新鋭船と同じく和辻春樹が担当した。和辻は、シアー(en, 舷弧:船首尾方向の甲板の反り上がり)とキャンバー(en, 梁矢:船側方向の甲板の曲面)を廃止した「高千穂丸」の船体設計により居住性や建造の容易さを高めて好評を博していたところ、本船もシアー・キャンバーを廃した典型的な和辻デザインとなっている[5]。
新鋭の高速船ということで、機関関係の設備も優秀なものが搭載された。主機械には、吉林丸型や高千穂丸型で成功した三菱ツェリー(en)の衝動式蒸気タービンエンジンを採用した。ボイラーは水管式で、27kg/cm2の高圧を発揮する燃料効率に優れたものである。燃料は石油ではなく石炭であるが、新型のテイラー式下込め自動給炭装置を日本で初めて装備し、16ノットの高い航海速力を維持できた[5]。
建造は三菱長崎造船所に発注され、1936年(昭和11年)9月19日起工、翌1937年(昭和12年)2月進水、同年7月31日に竣工。8月14日就航した。
運用
[編集]1937年8月15日に神戸港から大連への初航海に出た。太平洋戦争が勃発しても前半は徴用されず、そのまま民間船として運航された。1943年(昭和18年)8月29日に、黄海で貨物船「長順丸」(大連汽船:2,246総トン)と衝突し、相手方を沈没させる事故を起こしている[6]。
戦況が悪化した大戦後半になると、「黒龍丸」は輸送船の不足から軍の徴用を受けないまま軍事輸送に従事する陸軍臨時配当船(AC船)に指定された。ルソン島への増援部隊輸送のため、1944年(昭和19年)8月にヒ73船団に加入して門司港を出たが、機関の排煙の色が濃く敵潜水艦に発見される危険が高いとして「瑞穂丸」、「あらびあ丸」とともに分離された。3隻でモタ25船団を編成して海防艦3隻の護衛で9月4日に高雄港へ到着、さらに別の護送船団に加入してマニラに到着した。兵員や物資を揚陸後、日本へ帰国する遭難船員・一般民間人・傷病兵など695人を収容し[7]、10月21日にマタ30船団に加わってマニラから高雄へ向かった。しかし、10月24日0100、ルソン島ボヘアドール岬北西洋上で右舷2番船倉、機関室に魚雷1本ずつが命中し、1時半にスクリューをゆっくりと回しながら横転、船首から沈没した[8]。乗員を除く乗船者のうち324人が行方不明となった[7]。 その後、魚雷は「シードラゴン」からのものだと判断されたが[9]、「シードラゴン」は「黒龍丸」の被雷時刻にはなんら戦闘行為を行っておらず[10]、ほぼ同じ時刻に「7,500トン級輸送船」に魚雷を2本命中させた「スヌーク」こそが、「黒龍丸」を撃沈した真の潜水艦の可能性もある[注 1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 黒龍丸
- ^ 運輸通信省海運総局(編) 『昭和十八年版 日本汽船名簿(内地・朝鮮・台湾・関東州)』 運輸通信省海運総局、1943年、内地在籍船の部118頁、アジア歴史資料センター(JACAR) Ref.C08050083200、画像34枚目。
- ^ Kokuryu_Maru_Class
- ^ 大阪商船三井船舶(1966年)、428頁。
- ^ a b 大阪商船三井船舶(1966年)、434頁。
- ^ 野間(2002年)、394-395頁。
- ^ a b 第二復員局残務処理部 『船舶輸送間に於ける遭難部隊資料(陸軍)』 JACAR Ref.C08050112500、画像38枚目。
- ^ #駒宮(1)p.54,60
- ^ Cressman, Robert J. The Official Chronology of the US Navy in World War II, Annapolis: MD, Naval Institute Press, 1999, p. 561.
- ^ #USS SEADRAGON, Part 2p.90, pp.100-105
- ^ #SS-279, USS SNOOK
- ^ #駒宮 (1)p.60
参考文献
[編集]- (issuu) SS-194, USS SEADRAGON, Part 2. Historic Naval Ships Association
- (issuu) SS-279, USS SNOOK. Historic Naval Ships Association
- 大阪商船三井船舶株式会社『大阪商船株式会社八十年史』大阪商船三井船舶株式会社、1966年。
- 駒宮真七郎『続・船舶砲兵 救いなき戦時輸送船の悲録』出版協同社、1981年。
- 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年。ISBN 4-87970-047-9。
- 野間恒『商船が語る太平洋戦争―商船三井戦時船史』野間恒、2002年。