黛幸弘
黛幸弘 | |
---|---|
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 埼玉県浦和市(現・さいたま市浦和区) |
生年月日 | 1957年11月14日(67歳) |
騎手情報 | |
所属団体 | JRA |
所属厩舎 | 東京→美浦・保田隆芳(1977 - 1996) |
初免許年 | 1977年 |
免許区分 | 平地 |
騎手引退日 | 1996年 |
通算勝利 | 1353戦90勝 |
黛 幸弘(まゆずみ ゆきひろ、1957年11月14日 - )は、埼玉県浦和市(現・さいたま市浦和区)出身の元騎手・現厩務員。
来歴
[編集]デビュー前から騎手時代
[編集]父の文男は大井の元騎手、浦和の元厩務員であり、騎手への憧れを抱いていた[1]。
1977年3月に東京・保田隆芳厩舎からデビューしたが、前年の騎手試験で騎乗馬が外ラチに突っ込んで大腿骨を骨折し、試験も不合格であったため同期より1年遅れでのデビューとなった[1]。
同13日の中山第12競走5歳以上800万下・クニハルオー(9頭中6着)[2]で初騎乗を果たし、7月30日の札幌第5競走4歳以上300万下・スイートアースで初勝利を挙げる[3]。10月23日の中山第8競走4歳以上オープンではトウショウボーイに騎乗し[注 1]、1分33秒6という驚異的なレコードを叩き出し、2着に7馬身もの差をつけて圧勝してみせる[4]。
2年目の1978年には自身唯一の2桁で最多の17勝をマークし[5]、10月28日の福島第10競走猪苗代特別・コンコースで初の特別勝ちを挙げ[6]、11月19日には同馬の福島記念で重賞初騎乗(10頭中8着)を果たす[7]。
1985年には浦和から移籍してきたキングハイセイコーの主戦騎手を務め[8]、安田記念でGI初騎乗を果たすと[9]、札幌記念では2着[10]に入った。
1991年には初めて0勝に終わり[5]、1992年には9月5日の新潟第6競走4歳未勝利・セントマンボで1年ぶりの勝利、翌6日の第4競走4歳未勝利・トウショウジェラスで1990年7月29日の新潟以来2年ぶりの2日連続勝利をマークするが、同年はこの2勝に終わる[11]。
1993年は再び0勝に終わり[5]、1994年は9月18日の中山第7競走4歳新馬で9頭中9番人気のオンワードラムセス、1995年は9月24日の中山第2競走4歳未勝利で16頭中11番人気のケイイクセルを勝利に導く[11]。両年共にこの1勝に終わるが、後者が最後の勝利となった[11]。
1994年には1982年に結婚した妻・清子が体調を崩して死去したため、騎手生活晩年の平日は朝早くから調教に跨りながら幼い子供2人を学校へやり、競馬に騎乗する週末は人に預けざるをえなかったが、自分の騎乗が終わるとすぐに引き取りに行った[1]。夏場のローカル開催時には一緒に連れて行ったが、次男の弘人は北海道開催時に幸弘がレースで騎乗している姿を初めて見た[1]。
1996年2月17日の東京第7競走4歳以上500万下・ケイイクセル(16頭中9着)が最後の騎乗[12]となり、同29日をもって現役を引退。
騎手引退後
[編集]引退後は中野栄治厩舎で調教助手となり[1]、トロットスターなどを担当[13]。後に調教厩務員となり[1]、2015年にはフェアリーステークスで担当したノットフォーマルに息子の弘人が騎乗し勝利した[13]。
参考文献
[編集]脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g “フェアリーSで思い出されるある騎手の父子、そして亡き母との物語”. Yahoo!ニュース. 2022年1月15日閲覧。
- ^ 5歳以上800万下|1977年3月13日 | 競馬データベース - netkeiba
- ^ 黛幸弘のプロフィール | 騎手データ - netkeiba
- ^ トウショウボーイ|名馬メモリアル|競馬情報ならJRA-VAN
- ^ a b c 黛幸弘の年度別成績 | 騎手データ - netkeiba
- ^ 抽出[通算 1着レース]|黛幸弘の騎手成績|競馬データベース - netkeiba.com
- ^ 黛幸弘の近走成績 | 騎手データ - netkeiba
- ^ キングハイセイコー (King Haiseiko) | 競走馬データ - netkeiba
- ^ 黛幸弘の近走成績 | 騎手データ - netkeiba
- ^ 札幌記念|1985年6月30日 | 競馬データベース - netkeiba
- ^ a b c 抽出[通算 1着レース]|黛幸弘の騎手成績|競馬データベース - netkeiba.com
- ^ 黛幸弘の近走成績 | 騎手データ - netkeiba
- ^ a b “【フェアリーS】伏兵フォーマル大金星!黛、父と獲った重賞初V”. スポーツニッポン. 2022年1月15日閲覧。