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17人会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
VOC事務所だったアムステルダムの東インド館(Oost-Indisch Huis)の復元された会議室。17人会は8年周期のうち、6年はアムステルダムで開催されていた。
:帽子でキリシタンと判る日本人[注釈 1]
:『Kasteel van Batavia(バタヴィア城)』前景、椰子の樹下・鮮魚市場に左図日本人[注釈 2]
上図を暖炉上に掲げた会議室『VOC取締役のウィレム5世(1768年)』[注釈 3]
会議室暖炉左に掲げられた『アンボンの眺望』 [注釈 4]

17人会: Heeren XVIIまたは: Heren Zeventien)は、オランダ東インド会社(VOC)の最高経営会議である。

概略

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17人会は均質な組織ではなかった。団体名が由来する17名の取締役(管理権者:Bewindhebber)はVOCの4つの部門を代表していた。さらに、1614年以降、VOCの弁護士(複数人の場合もある)が席を持ち、1623年以降は6人の宣誓主要参与(hoofdparticipanten)がいた[1] [注釈 5]。後者は顧問(助言者)であった。

VOCの総会を構成する会社の4部門とは合計6つの「カーメル(kamer)」と呼ばれる支社からなっていた。

4部門の内訳は以下の通り[2]

17人の代表者の内訳は、アムステルダム・カーメル(8)、ゼーラント・カーメル(4)、デルフト・カーメル(1)、ロッテルダム・カーメル(1)、ホールン・カーメル(1)、およびエンクホイゼン・カーメル(1)だった[3]

17人目のメンバーは、アムステルダム以外のカーメルの1つから順番に選ばれた。これはアムステルダムが単独で過半数を占めることがないようにするための措置だった。

17人会の会合は、当初は年に2回、後には年に3回開催された。8年周期になっており、アムステルダムで6年間開催され、その後ミデルブルフで2年間開催された[4]。会合には数週間が必要だった。航海が組成されたそれぞれのカーメルの取締役は、総会とは別途に個別の会合を頻繁に行い、17人会で決まった施策を実施する責任があった。

17人会は毎年、輸入しなければならない商品のリストを作成した。また、配当金、艦隊の規模、アジア向けの商品の量(金と銀を含む)、輸入品を販売するオークションの日付、各カーメルの最大入札額も決定された[5]

1617年、VOCは日誌を保管する義務があり、すべての航海の記録は帰還時に提出する必要があると規定した。情報の開示はVOCにのみ許可されていた。1643年に、すべての特許状を持つ分野を網羅して記述する必要があると決定された[6]

VOC艦隊(Retourvloot)の提督が帰国後に自ら会議に赴いて報告することは、標準的な慣行だった。結果が十分であれば、メダル付きの金鎖を贈られた。また、詐欺や職権乱用の疑いがあるVOC社員も出頭して質疑に応じなければならなかった[7]

金鎖佩用の歴代帰還艦隊提督

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弁護士

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弁護士の地位には、登記官または秘書という意味がある[8]。1614年から任命された。会社活動の増加に伴い、すぐに2人目の弁護士が任命され、後に副弁護士も任命された。

弁護士の職務には次のようなものがあった。17人会やハーグ委員会やその他の会議への出席、会議の議題提起、報告書や要望書や抗議書その他の読み上げ、決議内容の記録。それらの文書すべてと会議の議事録は、他の秘密の文書や書類と同様に、弁護士が保管していた「秘密書冊(secreete boeken)」に記録された[9]

20世紀

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20世紀に、ピコ・グルーニンクス・ファン・ゾーレンFrederik Willem Edzard Groeninx van Zoelen)によって同名の会社が設立された。彼の祖先の3人はVOCのロッテルダム・カーメルの管理者であったため、17人会の名を付けた。この会社は、ロッテルダムのシーランドハウスHet Schielandshuis)を17世紀当時の姿に復元するための資金を集めた。さらにいくつかの絵画や海から引き揚げられた大砲など[10]、あらゆる種類の寄贈をした。

脚注

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注釈

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  1. ^ 1662年、アムステルダムのV.O.C.商工会議所が右図(Andries Beeckman作(1662年頃)アムステルダム国立美術館蔵)購入。
  2. ^ Kali Besar運河西側から見た1656年頃の風景
  3. ^ Simon Fokke作・版画(1769–73年頃)アムステルダム国立美術館蔵
  4. ^ David de Meyne作(1617年頃)アムステルダム国立美術館蔵。1605年にVOC初代提督Steven van der Hagenが征服したヴィクトリア砦ポセイドーンと海洋生物を戴くカルトゥーシュにはアンボン初代総督フレデリック・デ・ハウトマン
  5. ^ アムステルダムおよびゼーラントのカーメルでは、宣誓主要参与は6000ギルダー以上を出資していた。他のカーメルでは3000ギルダー以上が条件だった。
  6. ^ Cornelis van der Voort作(1620年頃)アムステルダム国立美術館蔵。妻Suzanna Moorの婚礼肖像画(作者不詳 1629年頃)も同館収蔵。
  7. ^ ヤコーブス・ヴァーベン作(1623-1699年頃) Westfries Museum蔵。ヤックス・スペックスの娘サラ(Saartje)を養育したEva Mentの最初の夫。Eva Mentの婚礼肖像画も同画家作、同館収蔵。
  8. ^ フランス・ハルス作(1633年)ケンウッド・ハウス蔵。
  9. ^ 作者不詳(1650年頃)アムステルダム国立美術館蔵。妻Maria Odilia Buysの肖像画(1628年 ヤン・ファン・ラーフェステイン作)はシネブリュコフ美術館蔵。
  10. ^ レンブラント・ファン・レイン作(1635年)。スペックス夫人Maria Odilia Buysの姉妹である妻Petronella Buysとの婚礼肖像画。
  11. ^ 旗艦Walvis()号以下12隻の帰還艦隊にヤン・ファン・リーベック及び1647年にTable Bayで座礁したHaarlem号乗員の一部も同乗した。
  12. ^ セイザル・ファン・エーフェルディンヘン作(1674年)Stedelijk Museum Alkmaar蔵。
  13. ^ 1669年 作者不詳 Fries Museum蔵。
  14. ^ VOCベンガル2代目総督。サミュエル・ファン・ホーホストラーテン作(1670-1678年頃)アムステルダム国立美術館蔵。
  15. ^ M.C. de Bruyn作(1700-1724年頃)Museum Arnhem 蔵。2人目の妻Susanna AgnetaWillem van Outhoornの娘、3人目の妻JohannaAbraham van Riebeeckの娘でGerrit de Heere未亡人だった。
  16. ^ Johanna van Riebeeckの弟のJohan van Riebeeckと妻Charlotte Maria Leideckerの婚礼肖像画はMattheus Verheyden作(1735年頃)アムステルダム国立美術館蔵。
    更にJohanの息子Gerard Cornelis van Riebeeck(デルフトの理事・書記官)と妻Charlotte Beatrix Strick van Linschotenpendant(1755年)も同画家作・同館収蔵。

出典

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  1. ^ Stapel, D.W.;(1927)Pieter van Dam's Beschryvinge van de Oostindische Compagnie,(inleiding en voetnoten door D.W. Stapel)deel I, Martinus Nijhoff, 's-Gravenhage
  2. ^ 田淵保雄 1973, pp. 86–87, 第1条.
  3. ^ 田淵保雄 1973, p. 87, 第2条.
  4. ^ 田淵保雄 1973, pp. 87, 第4条.
  5. ^ 田淵保雄 1973, pp. 87, 第3条.
  6. ^ Barend-van Haeften, M. (1992) Oost-Indië gespiegeld. Nicolaas de Graaff, een schrijvend chirurgijn in dienst van de VOC, p. 60-64. Zutphen
  7. ^ Stapel, D.W.; (1927), p. XVI
  8. ^ Een enkele maal wordt de functie Eerste minister van de Compagnie genoemd. In: Stapel, D.W. (1927), p. XV
  9. ^ http://databases.tanap.net/ead/html/1.10.57/pdf/1.10.57.pdf
  10. ^ Collectiestuk: Scheepskanon van de Admiraliteit van Rotterdam”. ロッテルダム美術館. 2021年4月9日閲覧。

参考文献

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  • 田淵保雄「1602年のオランダ東インド会社の特許状について」『Southeast Asia: History and Culture』第1973巻、第3号、東南アジア史学会、82-96頁、1973年。doi:10.5512/sea.1973.82 

関連項目

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外部リンク

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