コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

BI砲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
BI砲
タッグチーム
メンバー ジャイアント馬場
アントニオ猪木
名称
  • BI砲
デビュー 1967年5月12日
解散 1971年12月7日
団体

BI砲(ビーアイほう、B-I Cannon)は、1960年代後半から1970年代初頭にかけて日本プロレスで活動したジャイアント馬場アントニオ猪木プロレスタッグチーム

「BI砲」の名称は当時、プロ野球界で王貞治(Oh)と長嶋茂雄(Nagashima)のコンビが「ON砲」と呼ばれていたことから、馬場(Baba)と猪木(Inoki)の頭文字を取って名付けられた。命名者は当時、日本テレビアナウンサーとして日本プロレス中継で実況を担当していた徳光和夫[1]

概要

[編集]

1967年5月12日、岐阜大会でのワルドー・フォン・エリック&マイク・デビアス戦において、東京プロレスが崩壊し同月より日本プロレスに復帰したアントニオ猪木と、当時の団体エースであるジャイアント馬場とのタッグチームが実現。これが「BI砲」としての正式なチーム初結成であり[2]、以降、日本プロレスの看板コンビとして活躍するようになる。

同年10月31日、カウボーイ・ビル・ワット&ターザン・タイラーを破りインターナショナル・タッグ王座を獲得[3]、第9代のチャンピオン・チームとなる。日本プロレスのタッグにおけるフラッグシップ・タイトルだった同王座には、第9代、10代、12代、14代(防衛回数は順に0、11、4、14回)と、合計4回にわたって戴冠した。

1971年12月7日、札幌での防衛戦において、ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクザ・ファンクス)に敗れて王座から陥落したことを最後にコンビは消滅。以後、両者とも日本プロレスを離れ、独自の団体を旗揚げして袂を分かったため再結成は実現しなかったが、1979年8月26日、日本武道館で行われたプロレス夢のオールスター戦にて、一夜限りの復活を果たした(対戦相手はアブドーラ・ザ・ブッチャー&タイガー・ジェット・シン)。

なお、馬場は「日本プロレス時代に戻れるとしたら、もう一度組みたいのは吉村道明さんか坂口征二」と語っていた[4]

年譜

[編集]

主な対戦チーム

[編集]

備考

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ “徳光和夫 死去の猪木さんと「思い出尽きない」 日本プロレスで実況「すぐ魅了された」”. デイリースポーツ. (2022年10月2日). https://www.daily.co.jp/gossip/2022/10/02/0015688024.shtml 2022年10月5日閲覧。 
  2. ^ 『Gスピリッツ Vol.31』P33(2014年、辰巳出版ISBN 4777812936
  3. ^ 【猪木さん死去】坂口征二戦“黄金コンビ”初のシングル対決ほか/名勝負ベスト30&番外編”. 日刊スポーツ (2022年10月1日). 2022年12月21日閲覧。
  4. ^ 『Gスピリッツ Vol.50』P47(2018年、辰巳出版、ISBN 4777822400
  5. ^ 東京スポーツ. “復興への希望のアーチを描いた "平成のBI砲"”. 2012年3月30日閲覧。